袋小路のタクシー

植松眞人

 まだ町の用水路のほとんどに蓋などされていなかった頃。時々、子どもがそこに落ちて怪我をしたり、水かさによっては死んでしまったりすることもあった。
 自分が子どもの頃は、水があるというだけでそこは遊び場だった。ただ用水路を飛び越えているだけで楽しかったし、水面をアメンボが滑ったり、水の中を小さな魚が泳いだり、水の底をザリガニが歩いたりすると奇声を上げて飛び込んだ。
 当時、僕の家は大通りから細い路地を入った奥の方にあった。両脇に十軒ほどの家を通り過ぎた部分はまるでフラスコのように、円形になっている袋小路だった。僕の家はその袋小路の部分にあって、近所には子どもがたくさんいて、遊び相手には困らなかった。
 夏の暑い日で、まだどの家にもクーラーがあるという時代ではなかったので、大人たちも子どもたちも休日を家の中で過ごせず、表に出ていた。軒先に椅子を置いて涼んでいる人もいれば、玄関先にある水道から水を出し、その蛇口を掌で押さえて辺り一面にまき散らしている人もいた。薄らと虹が出て、その下を僕たち子どもは走り回った。どこまでが汗でどこまでが水道の水なのかわからなかった。
 そこに車のエンジン音が響いた。この路地に入ってくる車は近所のおじさんが乗っているオート三輪しかなかった。他は、配達人のバイクくらいだ。それ以外の車が入ってきたのは僕が知る限り初めてだった。見ると、それは黒塗りのタクシーだった。
 タクシーは左右の家々にミラーをこすらないように細心の注意を払いながら路地を入ってきた。ドアを開けて乗り降り出来るほどのゆっくりしたスピードだった。僕たちはその様子をじっと見守った。子どもが家から出たり入ったりしながら五人ほどいた。大人も同じくらいだろうか。十人ほどの視線を浴びながらタクシーは袋小路までやってきた。さらに細くなる道を見て、運転手は途方に暮れた表情を浮かべた。
 隣のおばさんが
「通り抜けはできひんで」
と運転手に声をかけた。
 運転手は
「そうですね」
 と力なく答えた。
「ここ、グルッと回れますか?」
 運転手は難しいだろうなという顔のまま聞いた。おばさんはちょっと口元に笑みを浮かべて、
「行っていけんことはないけどなあ。うちのお父ちゃんが生きてはったころ、大きなクラウンで、ここ一周まわりはったで」
 それを聞いた運転手は、にっちもさっちもいかないので、とりあえず車を前進させた。その場にいた大人も子どももタクシーのために場所を空けた。置かれていた椅子は家の中に運ばれ、ひっくり返っていた自転車は家と家の間のすき間に突っ込まれた。
 タクシーの運転手は僕たちにペコペコと頭を下げて、すんません、すんません、と言いながら、ゆっくりと車を走らせた。車体の長い車なので円周の短いカーブを曲がるのには四苦八苦していた。それでも、ゆっくりとだけれどなんとか車は袋小路の一番先、入口から一番遠い部分にまで進んだ。問題はここからだった。袋小路を曲がりきったところに用水路があり、それが僕たちの生活道路に食い込むようにほんの少しだけ道幅を狭めている箇所があるのだった。
 このまま行くと脱輪してしまう、と思ったのか運転手が車を降りてきた。近所のおじさんおばさんがみんな出てきて、一緒になって車のタイヤと用水路の位置関係を眺めた。
「これは落ちるな」
 そのあたりでいちばん賢いと言われているおじさんが言った。おじさんはステテコ姿に上半身裸だった。
「もう、バックで来たとおりに帰れ」
 そう怒鳴ったのはずっと黙って様子を見ていたじいさんだった。じいさんはさっきまでなんともなかったのに、ここへ来て急に怒りだしていた。
「いや、タイヤが半分引っかかってたらいける。大丈夫や、そのまま抜けれるやろ」
 そう言ったのは怒っているじいさんの息子で、町内会の会長をやっているおじさんだった。
 運転手はそこそこベテランのように見える白髪の男で、穏やかそうな作りの顔を少し不安げにして、大人たちの意見を聞いていた。そして、最後は自分で決断をした様子で、車の中に乗り込んだ。
 タクシーは一旦、後ろに下がり、少しハンドルを切るとゆっくりと前に来た。
「おちる!」
 子どもたちは笑いながらそうはやし立てたが、運転手はアクセルを緩めず、ゆっくりとしたスピードのまま微妙にハンドルを切った。タイヤは用水路ギリギリになり、さらに前に進むことで、タイヤの下半分には道路はなく、あと少しハンドルを逆に切ってしまうと脱輪しそうだった。子どもたちはこのスリル満点の状況に大興奮だった。
「もうちょっと右に切った方がええんとちゃうか?
 誰かが言ったのだが運転手はその声を聞かずにそのまま車を進めた。タイヤがきしんで本当に脱輪しそうになった。運転手はブレーキを踏み、ギアを入れ直してほんの少しバックした。
「いうこと聞かんからや」
 誰かが怒鳴った。
 運転手がこの場所の空気に飲まれてしまわないように必死で平静を保とうとしているのが子どもの僕にもわかった。
 運転手は窓を全開にして顔を窓から突き出して周囲の状況を確認した。時にはドアを開け、地面すれすれにまで身体を出して後ろのタイヤの位置を確認した。八月の終わり、夕方までまだ時間がある。暑さはピークに達していた。運転手の顔からは汗がしたたり、白いシャツは肌に貼り付いていた。じりじりと照りつける太陽の光と、黒塗りのタクシーから発せられる反射光の暑さで僕たちの袋小路はさっきまでよりも明らかに暑くなっていた。タクシーは触ると火傷しそうだったし、それよりも大人たちのタクシー運転手を見る目は刺々しく、それがより僕たちを暑くして、大人たちをイライラとさせているようだった。
 運転手は苦心しながら何度も何度も一進一退を繰り返した。そして、少しずつ苦境を脱するための努力を重ねていた。もう、彼は誰の声も聞いていなかったし、視線も気にしなくなっていたような気がする。たぶん、僕がその時に思っていた「もうすぐ、もうすぐ」という言葉を頭の中で繰り返していたのだと思う。
 すでに子どもたちの何人かはこのタクシー騒動に飽きて、その場から離れようとしていた。大人たちも引くに引けない気持ちでタクシーをにらみつけてはいるけれど、もうさっきまでの熱はなくなっているように僕には感じられた。
 あと、何度か切り返せばきっとこの袋小路から抜け出せる。みんながそう思っていた時に、どこかのおばさんの声が響いた。
「そんな運転が下手なら入ってくんな!」
 その声はなんとなく落ち着いていた袋小路という鍋の中のものを鍋底から大きくかき混ぜた。運転手が声に驚いて強くブレーキを踏んだ。スピードなんて出ていないのに、小さくはっきりとキュッという音がした。運転手は開いている窓から顔を出した。
「こんな汚い場所、入って来たくて来てるんとちゃうわ!」
 さっきまでの落ち着いた温厚そうな顔とは違う歪んだ顔で運転手は叫んだ。
 男たちが反射的に立ち上がった。女たちは自分のそばにいる子どもを、よその子か自分の子かに関わらず肩を掴んでタクシーから引き離した。それを合図にするかのように、男たちがタクシーとの間合いを詰めた。運転手は失態に気づき、慌てた拍子にブレーキから足を離した。タクシーが大きく前に進もうとして用水路に脱輪した。窓から乗り出していた運転手は用水路側に落ちそうになって、窓枠で鼻を打ち、鼻から鮮血を流した。(了)