走る犬、うずくまる人。(1)

植松眞人

 金曜日の夜に東京から大阪へと移動するのに新幹線を選んだのはいいけれど、僕のあずかり知らぬところで景気が良くなったという噂はどうやら本当で、のぞみはどれもこれも満席で、ひかりでさえ車両によっては席がないと言われてしまう。それなら、となぜか「こだまでいいや」と声に出してしまい、そうですか、とあっさり、東京発新大阪行きこだま六八三号のチケットを発券してもらう。午後七時半に出発して十一時半に新大阪に着ける。とりあえず、眠れるだけ眠っていけばそれでいいと思っていたのだが、出発してすぐにのどが渇いて仕方がなくなったのだが、近頃のこだまは車内販売もなければ自動販売機もない。仕方がないので、岐阜羽島の駅で列車を降りて、小銭を取り出して、自動販売機でお茶を買い、低い取り出し口から取り出そうとした時に、胸ポケットに入れていたスマホを落としてしまい、慌てた拍子に自動販売機とホームの隙間に自ら蹴り入れてしまうという体たらく。少し奥に入ってしまったようで手を突っ込んで、あちらこちらを触っている間に、なんだか汚いゴミのようなものを大量に掻き出しつつ、そのなかに自分のスマホを見つけてほっと一息ついた瞬間にこだま六八三号は動き出す。ホームにスンッスンッスンッという軽快な風切り音を残して出発進行。お茶とゴミだらけのスマホを握りしめたまま自動販売機の前で正座しながら僕はこだま六三八号を見送ることになったのである。
 このまま次のひかりが通りかかるのを待っても良かったのだが、なんだかこだま六八三号を見送った瞬間にいろんなことがどうでも良くなり、幸いお茶を買いにホームに降りるとき、小さなショルダーバッグから財布を出すのが邪魔くさく、そのまま担いだおかげで、こだま六三八号の中に忘れ物はなく、チケットも財布も仕事で使う小さなパソコンも全部持ったまま自動販売機の前に正座していたこともあり、僕は妙にさっぱりした気持ちで、立ち上がり四十数年生きてきて、生まれて初めて岐阜羽島の駅に降り立ったのである。
 岐阜羽島で降りる人は少なく、前を行く若いサラリーマンは両手に東京銘菓と書かれた紙袋を二つずつ下げていて、仕事上のお使いでも頼まれたような出で立ちで、後ろからは少し腰の曲がったお爺さんと、妙に背筋の伸びたお婆さんが互いに手を取りながらゆっくりゆっくり歩いている。
 とりあえず、あてもないので改札を出てタクシー乗り場の方へと歩く。客待ちのタクシーが僕を見て客席の自動ドアを開けたのだが、僕が乗る気配を見せないと、やがてまたドアを閉めた。そこへ、さっきのお爺さんとお婆さんがやってきてそのタクシーに乗ると、タクシー乗り場には一台のタクシーもいなくなり、僕はベンチに座ってさっき買ったペットボトルのお茶を飲み始めた。水銀灯のような青白い光がロータリーを照らしていて、とても静かな空気がたゆたっていて、もしかしたらあと少しぼんやりしていれば朝が来るのではないかと勘違いしそうだったのだが、犬がワンと吠えて、たゆたう空気は一瞬にして霧散する。