釣り堀の端 その二

植松眞人

 その日、耕助は営業時間の三十分ほど前に釣り堀に到着した。入口の脇に自転車を停めて掘っ立て小屋のような事務所へ顔を出すと汗だくの三浦がスマホを見ていた。
「おはようございます」
 三浦の元気だけれどあまり気持ちの入っていない挨拶が、耕助は嫌いではなかった。大学を出て新卒採用で東京の会社に勤めたとき角度まで決められて大きな声で挨拶をしろとよく怒られたことを思い出す。決められた角度まで腰を折り、大きな声で「おはようございます」と叫ぶように言っていても、教育担当を任された二年上の先輩は許さなかった。「気持ちが入っていない」と何度も挨拶を繰り返されたのだった。馬鹿馬鹿しくなって適当な挨拶を繰り返すと、尻を蹴られた。蹴り返してやろうかと思ったが、なぜか笑ってしまったのだが、笑っている耕助を見て先輩は何も言わなくなった。
「おはよう。気が抜けてていいねえ」
 耕助が言うと、三浦は笑いながら
「抜けてませんよ。こんなに気合い入ってるのに」
 と笑って返した。
「昨日、俺が出てから何人くらいきた?」
「昨日はいつもの高橋さんだけですよ」
「高橋さんすごいなあ。ここ二ヵ月くらい皆勤ですよ」
「ありがたい、ありがたい。あ、今日も来たよ」
 耕助の声で三浦が釣り堀の入口を見ると、常連の高橋が自前の竿を持って現れた。
「おはようさん」
 高橋が事務所に声をかける。いつものことなので高橋は事務所に寄ることもなくそのまま釣り堀の定位置に向かう。高橋のいつもの場所は事務所から一番遠く隣の家庭菜園に一番近いところだ。ここだと家庭菜園と釣り堀を隔てるフェンスを背負って吊ることになり、後ろを誰も通らないので煩わしくないのだ。それに、釣りに飽きてくると高橋は家庭菜園にやってくる主婦たちと談笑にふけるのである。定年まで大手事務機メーカーでインストラクターをやっていた高橋は話題が豊富で主婦たちも話すのを楽しみにしているようだ。いつか、三浦が「高橋さん、魚釣りに来てるのか主婦釣りに来てるのかわかりませんね」と笑って話していたことがあった。
 高橋の来場と同時になし崩しに営業開始となった釣り堀を、耕助は久しぶりにゆっくりと歩いてみた。そして、高橋の隣に小さな木箱を置くと椅子代わりに座った。
「お、めずらしいね。耕助くんが釣り糸垂れるなんて」
「この店ついで一年くらい経つのに、一度も釣ったことないんですよ」
「いつもはどこで釣ってるの?」
 高橋が嬉しそうに聞く。
「いや、釣りなんてやったことないんです」
 耕助が言うと、高橋はもっと驚いた顔になる。
「釣りもしたことないのに、釣り堀を継いだの?そりゃすごいや」
 高橋があまりに驚くので、耕助は面白くなって笑ってしまう。
「今日は、高橋さんに釣りを教えてもらおうと思って」
「いいよ。じっくり教えてあげるよ。でも、不思議なもんだよ。おれは、耕助くんのおじいちゃんに釣りを習ったんだよ」
 今度は耕助が驚く番だ。
「そうだったんですか」
「うん。定年してさ。何して良いか分からなかったから、毎日この辺散歩してたんだよ。そしたら、耕助くんのじいちゃんが『毎日目の前通って行くなら、一回くらい釣ってみろ』って」
「強引だなあ」
「強引なんだよ。で、釣りなんて知らないって言ったら、教えてやるって言い出してね」
 そう言うと、高橋は耕助の手から釣り竿を受け取り、仕掛けを確認し始めた。耕助はそんな高橋の手元を見ながら、会ったこともない祖父のことを想像してみるのだった。しかし、目の前の高橋を見ながらだと、どうしても頭のなかの祖父の顔が高橋にしかならず苦笑するのだった。
 事務所の窓から二人を眺めていた三浦が後からやってきた美幸に笑いかけて、
「あの二人、仲よさそうですねえ」
 と声をかける。
 耕助と三浦の二人分の弁当を作ってきた美幸が、ほんとうだ、と声をあげる。そして、窓の外からは見えない角度で、そっと三浦の背中に掌を当てる。三浦は振り返って、美幸に笑いかけるが、美幸は窓の外の耕助と高橋を見つめたままで笑っている。(つづく)