長い足と平べったい胸のこと(3)

植松眞人

「エモい」とアキちゃんが小さな声でつぶやいた。そう言ったままアキちゃんはセイシロウが女の子とつないでいるややこしい手元を見つめていた。わたしは「エモい」と「エロい」はどう違うのか、と思っていたのだけれど、アキちゃんはどう見たって少し興奮気味で、朝の通学の電車の中で妙な空気が出来上がっていた。

 前から思っていたのだけれど、アキちゃんはあんまり賢くない。どちらかというとアホだ。アホのくせに感覚的に賢そうなふりをしようとする。不思議なものでアホな子が賢そうなふりをしようとすればするほど、アホに見えてしまう。

 電車が揺れる。アキちゃんが冗談半分に揺れにあわせて、わたしの身体を押した。わたしはセイシロウのほうへ押し出される。おじさんを一人挟んで、わたしとセイシロウが立っている。わたしは身動きが出来なくなって、しばらくの間、セイシロウの横顔を眺めている。セイシロウはそんなに背が高くない。きっと一七〇センチあるかないか。わたしは女子の中では背が高い方だから、顔の位置があまり変わらず、ほんの少しだけ見上げる格好だ。わたしはじっとセイシロウを見ている。セイシロウは色が少し白い。そして、セイシロウはまつげが長い。だから、髪を伸ばせばもしかしたら女の子に見えるかもしれない。ただ、セイシロウを男らしくしている部分があるとすれば眉だ。セイシロウの眉は濃い。太いわけではなく、濃いのだ。キリッとしている。セイシロウが普段あまりしゃべらないのに、なにかちゃんとした意見を持っていそうに見えるのは、きっとこの濃い眉のせいだと思う。

 わたしがセイシロウの眉をじっと見つめている時に、セイシロウがふいにわたしを見た。顔を動かさずに瞳だけをこちらに向けて、わたしを見た。わたしはセイシロウと目が合ってしまって驚いた。驚いて視線を外すことが出来ず、ただじっとセイシロウを見つめてしまった。セイシロウは笑った。何を笑ったのかはわからなかったけれど、確かにセイシロウは笑った。そして、セイシロウが笑った瞬間にわたしは我に返って、セイシロウから視線を外して下を向く。下を向くと今度はセイシロウと女の子の握り合っている手が見えた。二人の手はさっきよりも、ほんの少し動いていて、これはもうアキちゃんいう「エモい」なんてレベルじゃなく、絶対に「エロい」だった。

 わたしの胸にはふいに怒りのようなものがこみ上げてきた。クラスでも大人しい、まともに女子と話もしないような男子が、朝っぱらから電車の中で女の子の手をエロく握っているという現実が受け入れられずにわたしは明らかにむかついていた。セイシロウ、てめえ!と思いながらわたしは視線をセイシロウの顔に戻した。セイシロウはじっとわたしを見たままだった。わたしを見ながら、セイシロウは他の女の子の手をいやらしく握っているのだった。わたしはまるで自分の手を握られているかのような気持ちになって混乱した。アキちゃんは自分自身が気付かないうちにエロい目になってセイシロウの手元を見ていた。わたしはそんなアキちゃんにもむかつきながら、おじさんの向こう側にいるセイシロウの足を蹴った。わたしの前にいたおじさんは驚いた顔をしたけれど、わたしにはわたしが止められなかった。おじさんの足と足の間から、わたしはセイシロウの足を目がけて、自分の足を蹴り上げた。わたしの足は、ほんの少しだけおじさんの足をかすりながら、セイシロウのふくらはぎあたりを蹴った。

「いてっ」

 セイシロウは小さく声をあげて、おじさんをはさんで、私の方に向き直った。ちょうど電車が駅について、私は一緒の駅に降りる同じ学校の生徒たちを押しのけながらホームに降りた。後ろから、「よっちゃん!」というアキちゃんの声と、「なんだよ藤村!」というセイシロウの声が同時に聞こえた。わたしはその声を無視して、誰よりも先に改札を抜けて学校への道を歩き始めた。(つづく)