編み狂う(5)

斎藤真理子

 誤算した。

 年末なので、師走に毛糸を買う話を書こうと思っていた。
 具体的には、何度か読んだ昔の小説の一場面だ。二人の女性作家が、年の瀬の賑やかな町で、舶来の毛糸を買うのだ。
 1930年代後半の話。

 舶来の毛糸。
 メーカー名も覚えている。ビーハイヴ、或いはビーハイブ。イギリスの有名な会社で、ここの毛糸は高級品だった。糸そのものの質が高いうえに、「トップ染め」という工法で染められていたからである。トップ染めとは、糸に紡ぐ前の羊毛の段階で染色すること。糸に加工してから染めるとべったりと平板な色になりやすいが、羊毛の段階で染めた毛糸はずっと色に深みがあり、また色褪せもしにくかったようだ。

(図版は『主婦之友』昭和九年十一月号の広告。主婦の友社が代理店となって、国産のアトラスという毛糸と、英国製のビーハイブの毛糸の両方を扱っていたらしい)

 憧れの毛糸だった。
 と、いうようなことを得意げに書こうと思っていたのだった。
ところが、いざその小説を読み返してみたらビーハイブが出てこない。

 そもそも毛糸を買うシーン自体がない。一冊読んでしまっても誰も毛糸を買わないので、あれーと思って、もう一冊思い当たるブツを図書館で借りて読んでみた。
 またもや、誰も毛糸を買わない。ほかのどうでもいいものばっかり買っている。そんなあ、と思ったがもう時間がない。

 こうなるともう、毛糸玉の糸端を見失ってしまったようなもので、手が出ない。
 毛糸玉の糸端なんて造作なく見つけられると思うかもしれないが、そんなことない。編み物をする人は、玉の内側から糸を引き出すのです。その方が糸が汚れず、きれいな状態で編めるからだ。そのため、内側の糸端にメーカーが紙のタグをつけてくれている。

 自分で「かせ」から玉に巻くときも、内側の糸端がちゃんと確保できるように気を配って巻きはじめる。ところが、「巻き」の強さとかいろんな条件によっては、糸端がこんがらがって出てこなかったり、たいへん手こずったりすることもある。
 どうも最近、私の記憶自体がそんなふうになっている。

 ビーハイブの毛糸を二人の女性作家が買う。もうちょっといえば、二人の作家は二人とも、プロレタリア作家と呼ばれる人たちだ。
 そういう描写が絶対、世界の中にあった。だって読んだんだから。けれども、毛糸玉の糸端がどっか別のところに結ばれてしまって、そこを引っ張っても呼び出されてこない。
 どこかこの界隈にはいるはずなのだが。

 年の瀬で町は賑やか。でも、時代が良くない方へ変化していくことをありありと感じながら輸入品の毛糸を買うという、それは贅沢だったのだと思うが、贅沢と覚悟とどっちの方が多かったのか、読むたびにその比率は変わって感じられるだろうと思って半ば予想していたから、また読み返すのが楽しみでもあった。のだが、ふたをあけてみたらそこになかった。毛糸玉が。

 なので、幻の糸端を持ったままで年越しをすることにします。

 1930年代後半の舶来毛糸は、あたたかく、色がよく、長持ちして、何度ほどいて編み直してもへたりが少なく、自分と家族を守るものだから買われたはずだ。そんなときにも、編み狂う一瞬は誰かのところに必ずあったと思うが、編み狂いだけに浸っていられるような時間が許されていたかどうか。
 私がそんなことをしていられるのは寿命が延びたからだ。
 そんなことを考えながら。

 セーターも毛糸玉もほぐせば一本の糸であることがよい。
 別に素晴らしくはなくて、単に、よい。