羽の感触の独白

植松眞人

 朝起きたときに、いやな夢の感触を覚えてること、ないか?
 つい何日か前のことや。朝起きた瞬間はいつも通りの朝やったんや。けどな、だんだんと「いや、違う」という気がしてきた。いつもと同じような朝やけど、なんかいつもと違うことが寝てるあいだにあったはずや。そんな気がしてきたんや。
 夢みたんやろって思うよな。俺もそう思たよ。なんか、覚えてないけど、すごいいやな夢を見たんやろなあって思ってた。けどな、妙にリアルな感触があったんや。何の感触かって? 羽や。そう、鳥に生えてるあの羽や。
 朝起きて、しばらくしたらだんだんと「あ、夕べ確かに俺の背中には羽が生えてたぞ」って思えてきたんや。最初は、「いや、そんなアホな」という気持ちと半々やったんやけどな。時間が経つにつれて「確かに生えてた」という気持ちになってきた。
 嫁さんにも背中を見てもろたんや。アホちゃうか言われながら。そしたら、「赤いニキビ跡みたいなもんはあるけど、それだけや」言われてな。
 けど、確実に羽が生えてたんや、という感触だけがある。ただ、それが自分が飛べるほど大きな羽が生えてたんか、赤い羽根募金の羽くらいのやつが生えてたんかが定かやない。完成型の羽なんか、生えかけの未熟な羽なんかもわからへん。ただただ、羽が生えてたという感触だけが背中に確かにあるんや。
 お前、俺がまた妙な作り話をしてると思てるやろ。いつも、適当なこと言うてるけどな。今日は違う。今日は本気で話してるから、お前も本気で聞いてくれ。
 お前が信じようと信じまいと、大前提として、俺の背中に羽が生えてたということや。そしたらやで、その羽はなにしに生えてん、ということになるよな。
 夢のなかでもええんやけど、たとえば空を飛ぶために生えたんかもしれん。
 お前、空を飛ぶ夢を見たことがあるか? あるやろ。どの辺飛んでる? いや、空を飛ぶ夢を見る時って、どの辺を飛んでる? ものすごい空の高いところか、そこそこ低空飛行か。そうか、雲をかき分けて飛んでるのか。前に週刊誌に書いてあったんやけど、空の高いところを飛ぶ人は自由にあこがれる人やねんて。低いとこを飛ぶ人も自由にはあこがれてるらしいねんけど、自信がないというか、不安があるというか…。まあ、俺は小心者やけどもな。それはほっといてくれ。
 それでも、俺にはだんだんとわかってきたんや。俺の背中に生えてた羽がどんな羽やったか、ということが。きっと、その羽はそれほど大きなもんとは違う。上からシャツを着たらなんとか隠せるくらいの大きさや。そやから、たぶん、飛ぶことはでけへんかったと思う。ただ、それを動かしたりは出来たと思うんや。なんで、そう思うかって? だって、自分の背中に生えてたって感触があるんやで。それをじっくりと思い返してたら細かいとこが見えてくるよ。
 ただなあ、思い返せば思い返すほど、それがあんまりええことではない気がするんや。そうやろ。背中に羽が生えるって、気持ち悪いやないか。世の中に背中に羽の生えてるもんがどこにおる? おったとしたら天使やろ。俺は天使が実在するとしたら、世の中でいちばん猥雑な存在やと思うわ。人間でもない神様でもない。間に立って、行ったり来たりしてるねんで。あんな猥雑な中途半端な存在はない。
 俺はそんな猥雑な存在に一歩近づいたんかと不安になってしもたんや。
 けどな、今日の朝、そんなことを考えながら、ここに出勤するために家を出たときにちょっと考えが変わった。
 家を出たところに小さな公園があるんや。その公園の前を駅に続く道があってな。道と公園は低いフェンスで仕切られてる。フェンスは俺の腰くらいの高さしかないんかな。そしたらな、そのフェンスにカラスがとまってたんや。そのカラスを見た時に俺は思た。俺の背中にほんまに羽が生えてたとしたら、その羽は白かったんやろか、カラスのように黒かったんやろかってな。
 そう思いながらカラスを見たんや。見ながら、子どものころ、よう聞いたいやな話を思い出した。ほら、よう聞いたやろ。カラスが三回鳴くのを聞いたら死んでしまう、いうやつや。
 なんか急に怖なってきてな。俺、そのカラスが鳴いたらどうしよう。三回鳴いたらえらいことや。そんなことを考えてたわけや。
 さっきまで普通に歩けてたのに、俺は怖じ気付いてしもて、カラスの脇をぎくしゃくしながら歩いてた。そしたらカラスの奴、鳴くわけでもなく、俺を無視するわけでもなく、じっとフェンスの上に立ってるんや。そんで、じっと小首傾げてるんや。
 俺、それ見てたら、そうか、それでええんやと思えてきてな。背中に羽が生えてもええわ、と思えたんや。妙なことが起きても、なんでやろ、と心配する必要はないんやと思えたんや。小首傾げて生きてたら大丈夫やって。そう思たら、あの寝起きのいやな感じがなくなってしもたんや。
 後輩のお前捕まえて、朝から妙な話聞かせて悪かった。まあ、後輩やねんからこのくらい我慢してくれ。こっちは、お前が黙ってこの話を聞いてくれたおかげで、すっきりしたわ。今日の晩、一杯おごるわ。おう、ほんまや。俺が嘘ついたことあるか。ほな、今日も一日、仕事に専念しよか。
 え? 背中の感覚か? あるよ。確かに背中に羽が生えてたっていう感覚は消えてへん。たぶんやけど、この感覚は薄なることはあっても、一生消えへんと思う。一回味わった感覚は、いやな感覚もええ感覚も、どっちもどんなことがあっても消えへんねん。たぶんな。
(了)