吹き寄せ控え三

高橋悠治

記号や指示がすくない楽譜を書こうとして辿りついたのは 長い音を2分音符で 短い音を8分音符で 速い音が必要なら16分音符を使い 音を切るときはコンマを書く 音や休みの長さは自由 いままでの記号の使いかたを変えるほうが 新しい記号を発明するより読みやすい

説明はいらない 演奏家はことばによる指示はどうせ読まない 書いてあっても 現場でおなじことを質問される かえって説明がないほうが あれこれのイメージが浮かぶかもしれない

強弱やテンポは書かない 数えるのも計ることもいらない 20世紀後半の音楽には高低・長短・強弱の対立がおおかったが 劇的な身振りはどれも似たものになってしまう 複雑にしても単純にしても もう聞くまえに飽きている

メートル法やデカルト空間は区切り計り分類し分析する 最小の原子に達するとそれを形成要素とし 向きを変えて 積み上げはじめる 構造がつくられ 構成がある 管理する手があり 表現する意志がある 根を張った木はうごけない 枝がそよぐだけ

二つの薄膜のあいだの距離 デュシャンがinframince 極薄と言ったもの 支えがなく吊られた曲線がただよう indefinite reunion は あてにならない再会と訳す すがりつく持続低音を振りきって 対位法もヘテロフォニーも息苦しい 重ね書きと見せ消ち 一行になった二行と 消し残った上に別なかたち

音はたちまちうつろい褪せるから あちこちをさがして 次の音を見つける 考えると何も見つからない 規則も確率ランダム関数も それぞれの顔がある 興味や不安をそそるのは 知らないもの ためしてみたいうごき

楽譜の一段の空間に音の線を書きこむ なかほどからはじめて 右端まで行ったら どこか途中へもどって 空いているところに書く 平安古筆回遊式の消息文 線の始まりと終わりは雁行させ それぞれの音の入りも和音にならないように崩す 17世紀フランスのstyle brisé つま弾き 崩し それぞれの地層が見える崖のような 瞬間の和音の残像が音階や旋法に回収されないように 対斜をつくり 軌道を踏み外す 次の音へ蟻継ぎ ホケット 音のつながりを予想外のところで断ち切って 休みを入れ そのあとおなじ音で継ぐ 消えかかる線が どこからともなく帰ってくる 古浄瑠璃に例がある

音をつなげるには一本指をすべらせるように 距離が大きくなるにつれて 隙間が大きくなり 呼吸する自然のリズムが生まれる うねる長い線は感情を押しつけてくる バロックの折れ曲がる鋭い線と余白の組み合わせ

線の振れ幅とにじみに濃い色を感じ 細い線の気ままなうごきが 振りとばされて遠く消えていく 散らし書きの中心には余白がある 大きな余白があれば 音は散らばり ちいさな余白がいくつもできる

ながめは目を遠くに向けて 何も見ず何も思わない状態 きくとはすこしちがう 見えないものを見る 外と内がわかれていない 見ていないと見えるもの きいていないときこえるもの

走り書き 手をあそばせる ふるまいを裏切る 書きさし 本をとりあげ 目にとまることば ちがうイメージが生まれたら 本から離れる 本は本から離れるきっかけ 消えないで残る「かたち」にならない痕跡