夜のバスに乗る。(6)犬井さんは「バスの方がいい」と言った。

植松眞人

 犬井さんに言われたとおり、僕と小湊さんはバスが終点を過ぎるのを待っていた。バスに揺られながら、小湊さんは僕に、
「ねえ、できると思う?」
 と、とても楽しそうに聞く。
「どうだろう」
 僕が正直に答えると、小湊さんは不満そうな顔になる。
「斉藤くんがそんなふうだと、うまく行くものも、うまく行かないよ」
 そう言われて、僕は笑ってしまう。
「勝手だなあ」
「そんなの、承知の上よ」
 小湊さんの言葉に、それはそうだ、と僕は思う。だいたい、バスジャックしてまで修学旅行のやり直しをしたいなんて考える時点でとてもおかしい。だけど、それほどおかしなことを言っているような気がしないのは、小湊さんがなんとなくだけれど、失敗したら失敗したでかまわない、という気持ちでいるからじゃないのか、と僕には思えた。小湊さんはそんなことは一言も言っていないのだけれど、そんなふうに思っているのかもしれない、と僕には感じられた。
「ねえ、できると思う?」
 小湊さんがまた、聞いた。さっきよりも力のない声で、でも、はっきりと僕に問いかける。
「できると思うよ」
「ほんと?」
 今度は僕が驚くほど、明るい声で小湊さんが言う。まるで、普通の女子高生のような声だ。普段はとても落ち着いた、意味ありげな感じのする声を出すくせに、いま「ほんと?」って僕に聞く声はとても可愛い。これがわざとだったら、とてもじゃないけど付いていけない。そう僕は思ったのだけれど、今の僕には、それがわざと出した声なのか、知らず知らず出している声なのかはまったくわからない。僕はそこまで大人じゃない。そう思うと、自分で笑ってしまった。
「余裕が出てきたじゃない」
 小湊さんは僕の笑顔を勝手に解釈してそう言った。
 バスが終点のバス停で止まった。犬井さんが車内放送のマイクで「降りないよね、当然」と楽しそうな声で言った。
 終点のバス停を通り過ぎると、犬井さんは駅前の大きなロータリーをぐるりと回った。
「終点から後で、お客さんが乗ってるとまずいから、ちょっと隠れてくれる?」
 犬井さんに言われて僕たちは頭を低くして、外から見えないようにする。この不自然な態勢になった途端に、小湊さんが笑い出す。「笑っちゃ駄目だよ」と僕が言うと、「だって、おかしいんだもん」と小湊さんは遠慮なく笑い続けた。僕はそっと犬井さんを盗み見たのだが、犬井さんも笑っている。みんなが笑っているんだから、この計画はもしかしたらうまく行くんじゃないかと、僕は思い始めた。

 ロータリーを出て、バスは車庫のある町へと向かった。少し離れた車庫まで、バス停で言うと四つほどだと犬井さんは言った。
 市街地から大きな川を渡るバイパスに乗り、それを降りたところで、犬井さんはバスを大きく迂回させて、バイパスの高架下にバスを停めた。エンジン音が響くのを避けるためだろう、素早くエンジンを切ってから、犬井さんはゆっくりとサイドブレーキを引き、ギアをもう一度ローに入れた。
 車体に残っていたエンジンの振動がすっかり消えると、犬井さんは席を立って、僕たちがいるところにまでやってきた。そして、改めて僕たちをしばらく眺めてから、またため息をついた。でも、そのため息は心の底からのため息ではなく、わざと僕たちに「本気なのか?」と確かめるためのため息、というように僕には思えた。小湊さんは犬井さんのため息に答えるかのように、
「よろしくお願いします」
 と頭をさげた。
「参ったなあ。でも、実は始まっちゃってるんだよね」
「なにがですか」
 僕が聞いた。
「本当はあのまま真っ直ぐ車庫に行かなきゃいけないでしょ。でも、いま私たちはこうしてバスを停めて話し始めてる。これもう、バスジャックが始まってるのと同じなんです。私にとっては」
 犬井さんはそう言って笑った。
「だってね。高校を出て、バスの運転手になってもう三十五年ですよ。今年で五十二歳。ずっと真面目一方でやってきたから、これまでコースを外れたこともないし、勤務時間内にバスを停めたこともない。だけど、もう、なんとなく乗っちゃったんですよね。へんな計画に」
「楽しそうだから?」
 小湊さんが犬井さんをからかうように言う。
「面白いな。うちの娘がお嬢さんと同じくらいなんですよ。いま大学一年生。うちの娘と話してても、なんか切なくなるんですよ。私と似て、真面目一方で。真面目なのが悪いとは思わないんだけど。いいとも思えないんですよ。うん、決してよくはないな。なにか、こう、父親とか母親とかもっと心配させて、彼氏でも作って、遊んだりすればいいのにって思うんです。私がそんなこと全然できなかったから。でもね、せつないね。まったく同じように真面目で」
「もしかしたら、知らないところで遊んでるかもしれませんよ」
 小湊さんはそう言ってから「すみません」と謝った。
「いやいや、本当にそうかもしれない。そうかもしれないけど、だったら今度はそんなにうまいこと隠さなくてもいいじゃないか、なんて思ってね。まあ、どっちにしてもいいじゃない。バスジャック。危ないことは考えてないんでしょ」
「はい」
 小湊さんがいらないことを言う前に、僕が元気に返事をした。そんな僕を小湊さんはちょっと醒めた感じで見ていた。
「ちょっといいかな」
 僕は小湊さんに言う。
「犬井さんはいいって言うけど、僕はタクシーとか、もっと小回りの効く乗り物のほうがいいんじゃないかって思うんだけどどうだろう」
「だめだよ、バスでなきゃ」
「修学旅行がバスだったから?」
「そう、バスだったから」
「でも、僕たちすごく人数が少ないじゃない。だったら、バスじゃなくても。それに、その理屈だと修学旅行が電車だったら、電車ジャックをしなきゃいけなくなるし、飛行機だったらハイジャックになってしまう」
「そうね」
 小湊さんは楽しそうに笑う。
「いや、やっぱりバスの方がいいよ」
 犬井さんが割って入った。
「だって、先生にも付き合ってもらうんでしょ? だったら、バスの方がいいと思うな。タクシーだと、本気度が伝わらないから」
 犬井さんの言葉に、僕と小湊さんは吹き出してしまう。
「いまどきの修学旅行はとても贅沢になって、飛行機で海外なんていうのもざらにあります。そんななかでバスですよ。バスで東京から関西方面に行くなんて学校、あんまり聞きませんからね。バスを運転する者としてはとても嬉しいんです」
 犬井さんは少し高揚しているかのように頬を赤くして話す。
「それにバスじゃないと、私が参加できないじゃないですか」
 犬井さんがそう言うと小湊さんは弾けたように答える。
「じゃ、バスで決まり。犬井さんに運転してもらって、まず、先生を迎えにいく。そして、江ノ島方面へ向かう。それでいい?」
 小湊さんが僕に聞く。
 ここまで話がまとまっているのに、僕は反対する理由なんてひとつもなかった。それに、僕もこの時点でこの計画がとても楽しみになっていたのだ。
 犬井さんは、運転席に戻ると、手帳と分厚い紙の束を持ってきた。どうやらバスの運行に関するメモや規定や時間表が載っているものらしかった。それらをペラペラとめくりながら、いくつかの事柄を犬井さんはメモした。
「このバスは本当は車庫に入れなきゃならないバスなんです。だから、いったんバス会社の車庫に向かいます。そこで、私がタイムカードを押して、バスの引き継ぎ表とかを事務所に返す。本当なら、その時にバスのキーを返すんだけど、それはなんとかごまかします」
「そんなことできるんですか?」
「できるよ。マスターキーだけを抜いて、他の鍵の束を一応キーケースに返しておく。こうすれば、明日の朝、このバスを運転する人が来るまで時間が稼げる。明日の朝、このバスは六時七分にここを出る予定です。となると、約三十分前に運転手がやってくる。念のため一時間前の五時までにこのバスをここに返せば大丈夫。目立つような車庫の真ん中じゃなくて、車庫の裏手にある第二車庫に停めておくこともあるから、そっちに停めれば気付かれにくいし、返すときも返しやすいです」
 僕と小湊さんは犬井さんの計画を聞いている。車庫の状況がわからないので、正直、犬井さんの言うとおりにするしかないのだが、ここはもっともらしくいちいち頷いてみる。頷いているうちに、いよいよ計画を実行するんだという気持ちになってくる。