月を追いながら歩く(4)

植松眞人

 その日、邦子は東京駅の二十三番ホームで香と待ち合わせをした。チケットは事前に教えてもらった香の住所に送っておいた。ジュンさんに会いましょうよ、と言い出したのは香だった。邦子も久しぶりに会いたいとは思ったのだが、香のように「会いに行く」という行動に直結はしなかった。しかし、『会いたい』の次は『会いに行く』しかないですよ、と笑う香を見て思わず「一緒に来る?」と誘ってしまったのだ。香はなんの迷いもなく「はい」と答えた。
 邦子はその場で父の妹である叔母に電話をかけ、ジュンさんの連絡先を聞き出した。
「今頃、ジュンさんに何の用なの」と聞かれたのだが、邦子は答えを用意していなかった。それで、正直に「会いに行こうと思う」と話すと、一瞬の沈黙があって「好きにすればいいけど、あの人変わってるから会ってくれないかもよ」と父方の叔母は電話番号と住所を教えてくれながら、呆れたようにため息をつくのだった。
 叔母が教えてくれたジュンさんのフルネームは大久保ジュンだった。「漢字は?」と聞くと、「片仮名でジュンっていうんだよ。ハイカラな名前だってみんなが囃すもんだから、本人は嫌がってたけどね」と叔母は笑った。
 邦子がメモをした名前を香がのぞき込む。
「片仮名でジュン、か。なんだか芸能人みたいですね」
「そうね。私にとっては芸能人とはいかないまでも、きれいで、なんとなく別世界の人だなあって思ったわね」
「そんなにきれいだったんですか」
「顔立ちはどちらかというと地味だったと思うわ。でも、背筋がピンと伸びて、髪型もベリーショートでね。シワのない白いブラウスがなんていうか、こう言っちゃなんだけど、掃き溜めに鶴って感じがしたわ」
 それを聞いて、香が笑っている。
「掃き溜めって、いくらなんでも」
「でも、その時まだ子どもだった私の正直な感想なのよ」
 そう言って、邦子も笑ってしまう。
「掃き溜めの中で、ジュンさんは輝いていたわけですね」
「そう。輝いていたの。だから、そんなジュンさんとうちの父がいつも楽しそうに笑っているのを見るとなんだか、私まで嬉しくなってね」
「ジュンさんに会うの、楽しみですね」
「そうね。この写真のことジュンさんが知っているかどうかはわからないけれど」
「写真のお話をするときには、ちゃんと席を外しますから」
「そんなことを言うあなたが、なんだか嬉しいわ」
 邦子は思った通りのことを言葉にした。
「ありがとう。邦子さんみたいに真っ直ぐ話してくれる人とお友だちになるの、初めてかもしれない」
「真っ直ぐ話すと、時々人を傷つけたりもするんだけど……」
 邦子は笑いながら香に言う。

 東京駅を出発して一時間と少しで新幹線は長野駅に着いた。
「スキーのできない季節に長野に来るなんて初めてです」
 そう言って笑う香を邦子は連れて、レンタカーを借りた。香が運転するというのを断り、邦子がハンドルを握る。半分電気で、半分ガソリンで走るのだというレンタカーは、アクセルを踏むと、驚くほど静かに加速した。
 セットされたカーナビは、ジュンさんの住む場所へと二人を導いていく。走り出してから、邦子はカーナビの音声案内に集中していて言葉を発しない。香もそんな邦子を見守っていて黙っている。
 うまい具合に青信号が連続して、赤信号に当たるまで十分以上、黙ったままで邦子は車を運転した。久しぶりに運転で緊張していたせいなのか、長野という初めて走る土地のせいなのか、信号待ちの瞬間、大きなため息をついた。
「大丈夫ですか? いつでも交代しますよ」
 香にそう言われ、邦子は自分の何が心配されているのかわからなかった。
「どうして?」
「だって、とても大きなため息をついたから」
「ため息?」
「そう、ため息」
「少し緊張していたのかも。でも、大丈夫、疲れてはいないから」
 青信号になって、邦子は再びアクセルを踏む。
「なんか、楽しみなんだ」
「ジュンさんに会うのが?」
「それもあるけど、別に会えなくてもいいの」
 邦子がそう言うと、香は不思議そうな顔をした。ジュンさんに会いに来たのに、会えなくてもいいってどういうことだろう。そう考えている顔だ。そして、邦子はその顔を目の端に捉えて、問わず語りに話し出す。
「新幹線に乗っている間に、いろいろ考えたの」
「………」
「叔母が言う通り、ジュンさんが会ってくれなかったらどうしようとか」
「でも、電話はしたんですよね」
「うん、電話したよ。とても懐かしいって喜んでくれて」
「じゃあ、きっと待ってくれていますよ」
「そう思う。でも、新幹線に乗っているときに、なんとなくだけど、本当はジュンさん、私に会いたくないんじゃないかと思ったの」
「どうして?」
「それはわからない。とても、喜んでくれているんだけど、心の底から喜んでくれているんじゃなくて、なんだか迷っているようなそんな感情が一瞬だけどあったような気がするのよ」
「声のトーンとか?」
「そう、声のトーンとか」
「はっきりとはしないけれど」
「そう、はっきりとはしないけれど」

 車は幅の広い幹線道路から折れて、一車線対抗の県道へと入ってきた。邦子はとても広い駐車場がある小さな洋菓子屋を見つけて車をとめる。
「お土産を買っていくわ。香ちゃんの好きなケーキを買ってきてくれる?」
 そう言って、邦子は香に紙幣を渡した。
 香がケーキを選んでいる間、邦子は車を降りて背中を伸ばした。そして、数日前に電話をしたとき、なぜ、ジュンさんが「会いたくない」と思っていると感じたのか、考えていた。考えてもわからないのだが、あの時の声のトーンを思い出していた。
 ジュンさんは邦子のことをはっきりと覚えていた。父のことも母のことも覚えていて、懐かしいと言ってくれた。そして、こちらから切り出す前に、「会いたいわね」と言ってくれたのだ。だから、これから会いに行って、会ってくれないということはないはずだ。にも関わらず、邦子はほんの一瞬抱いた、ジュンさんは私に会いたくないんじゃないか、という気持ちを完全に消し去ることはできなかった。
 そして、その気持ちをもう一度振り返って見ようと空を見上げた。
 その時、あの写真の空が見えた。真っ青なはずの空と雲がモノトーンで邦子の目の中に飛び込んできた。ふと足元にうずくまってしまいそうなくらいに驚いた。そして、その感覚から少し遅れて、邦子は本当に自分の足元にうずくまった。
「大丈夫ですか」
 香が驚いて声をかける。手に持ったケーキの箱が揺れている。
「大丈夫よ」
 邦子が応える。
「それより、ケーキがくずれちゃう」
 そう言って笑うと、香は慌ててケーキの箱を両手で包み込むようにして持ち直した。
「本当に大丈夫ですか」
「うん、大丈夫。あの写真と同じ空だって思ったら、びっくりしちゃって」
 邦子は車のドアを開け、自分のバッグから、父が撮った数枚のモノクロの写真を取り出した。その中の一枚の空の写真を手にすると、それを空にかかげて見比べてみた。雲の位置は少し違っていたけれど、確かに長野の空に見えた。
 だけど、と邦子は思う。この写真が本当に長野で撮られたのかどうかは、ジュンさんに聞くまでわからない。邦子は思うのだった。ジュンさんが私に会いたくないと思っているのではない。きっとジュンさんはこの写真が長野で撮られたかどうかを知っていて、そのことを自分の口から話したくないのではないだろうか。そんな気がした。
 邦子はもう一度モノクロの写真を見た。そして、また空を見上げた。雲は風に流され、さっきよりも写真の雲の形に近づいているように見えた。