犬の名を呼ぶ(5)

植松眞人

 見上げると大きな月が出ていた。
 菜穂子は実家に預けたままになっているゴールデンレトリバーのことをまた考えていた。なんだか不安になるほどに近く大きく見える月明かりの中で、いつもより街がしんとしているように思えた。
 仕事に復帰してからの最初の半年ほどは、周囲も「まだ子供が小さいんだから」と気を遣ってくれていたが、気遣われている自分も気遣っている周囲も、だんだんとその気遣いが重荷になり鬱陶しくなり始めた。それからは、菜穂子の「だいじょうぶだいじょうぶ」という返事が少しずつ育児休暇前の働き方に引き戻していき、いまでは以前のように帰宅が深夜に及ぶことも多くなった。
 夫の高敏とたがいに連絡を取り合いながら、聡子の幼稚園の送り迎えをしてきたのだが、高敏が帰ってこなくなってからは、菜穂子が幼稚園に送り届けるようになった。お迎えは実家の母の仕事だ。菜穂子は会社帰りに最寄り駅の一つ手前の駅で降りて実家に立ち寄る。そして、聡子と一緒に帰ってくる。その頃には聡子はすっかり眠そうにしていて、家に帰るとそのまま寝入ってしまうことが多い。
 ブリオッシュと名付けたゴールデンレトリバーを衝動買いしてしまったのは、もしかしたら聡子の相手をちゃんとしてやれていない、という後ろめたさがあったからかもしれない。高敏のいない土曜日の午後、聡子を連れて郊外のショッピングモールに出かけたときにこう言われたのだ。
「妹か犬が欲しい」
 そう言われた瞬間に菜穂子は目の前にいたゴールデンレトリバーを飼おうと決めてしまっていた。
 ペットショップで犬の飼い方の説明を受けている時から、頭の中では実家で遊ぶ仔犬の様子ばかりが浮かんでいたのだった。
 菜穂子はバス停でバスを待ちながらもう一度月を見上げた。そして、自分が聡子と同じ歳の頃に、同じように「犬が飼いたい」と両親に言ったことがあったなあ、と思い出した。あの時、なぜ、あんなに小さな仔犬を自分は腕の中に抱えていたのだろう。菜穂子は思い出せないでいた。捨て犬を拾ったのだったか、友だちの飼っていた犬が仔犬を産んだのだったか。細かなディテールはすっかり失われていたが、抱えていた犬の温もりや重みや微かに獣くさい匂いは、はっきりと思い出された。
 まるで、この仔犬との別れが人生の終わりだとでも言うように、菜穂子は火がついたように泣いた。しかし、両親は決して屈しなかった。
「犬を飼うような余裕はない」
「よそはよそ、うちはうちだ」
「どうせ、可愛がるのは最初のうちだけ」
 そんな言葉の数々が思い返される。菜穂子も聡子に犬をねだられたとき、同じことを言い返そうとした。しかし、すぐにあきらめた。たぶん、あの頃の両親には本当に余裕がなかったのだ。それに比べていまの自分には犬を買い与えるくらいの余裕があった。あの時の仔犬はただでもらってきたか拾ってきた。でも、聡子がほしがっている犬には十万円を越える値段がついていた。それでも、買えてしまうんだ、と菜穂子は思った。
「私は親として弱いな」
 菜穂子はそうつぶやいて、月から視線を外した。父さんや母さんのように聡子を育てたいと思いながら、なかなかうまくいかない。自分が子供の頃に我慢させられて良かったと思えるようなことが、聡子には我慢させられない。高敏と一緒に暮らしているころから、時々、そのことについて菜穂子は考えていた。それは私自身が弱いからなのか。私が聡子に良く思われたいとしているからそうなるのか。そこが菜穂子にはわからなかった。少し我慢させようと、「だめ」と声を荒げたときの聡子の切ない顔が耐えられなかった。なぜ、ちゃんと叱れないのだろう。両親はどうだったのだろう。
 そして、いま月を見ていて菜穂子は思い出した。私が「だめ」と声を荒げたとき、いつも夫は私と聡子から視線を外していたことを。私が叱っていることを知っているくせに、高敏は聞いていないふりをして、私たちに背を向けていた。
 父が声を荒げたとき、母は父の横で同じように少し怖い顔をしていた。でも、ときどき父が怒りすぎると、ほんの少しだけ母は笑ってくれた。父に気付かれないようにほんの少しだけ笑ってくれるのだった。
「親として弱いな」
 菜穂子はもう一度つぶやいた。その声が思いのほかはっきりとした声になっていたらしく、前に並んでいた中年のスーツを着た男が菜穂子の方をちらりと振り返った。父と同じくらいの歳だろうか。もう少し若いだろうか。会社を引退してからスーツを着なくなった父は、その日着る服によって若く見えたり、老け込んで見えたりする。

 ブリオッシュを連れて実家に行ったときの父の顔は忘れられない。突然現れた自分の娘を見て、なんだお前か、という顔をしたかと思うと、すぐに孫の聡子を見つけて相好を崩し、次の瞬間に小さなゴールデンレトリバーを見つけて笑ったままの顔が凍り付いたのだった。
 その一連の流れがまるでコントを見るようで、菜穂子は大笑いをしてしまったのだった。父は大笑いする菜穂子に何かを言おうと懸命に体勢を立て直そうとする。しかし、父が何かを言うよりも先に聡子がこう言ったのだった。
「ねえ、おじいちゃん、かわいいでしょ」
 すると、父は引きつった顔のまま、
「ああ、かわいいねえ」
 と、答えてしまったのだった。
 こうなったら、父に勝ち目はない。後は可愛い孫娘が一生懸命に説明する犬の飼い方をうんうんとうなずきながら聞くしかない。こうして、菜穂子は無事にブリオッシュを実家に押しつけることができたのだった。
 そういえば、私が何かを頼んで父が反論もせずに許してくれたのはこれが初めてだわ、と菜穂子は思う。正確には私ではなく聡子が頼んだようなものなのだが…。そう思った時に、菜穂子は父に聞いてみたい気持ちになった。私を育てていた時と、いま聡子を膝に載せているときと、何かが変わったの、と。聡子が頼むと、どんなに小さなことでも全身全霊で応えようとする父の様子を見ていると、こちらがむずがゆくなるほどだ。
 それでも、きっと私が聡子に対して抱いてしまう「親としての弱さ」とはまったく異質なものなのだということはわかるのだった。
 聡子は今年幼稚園の年中さんになった。あと二年で小学校に入学する。幼稚園を探し回っていた一年ほど前まではとにかく毎日が忙しかった。聡子と一緒に起き出して、聡子と一緒に寝て、聡子と一緒に食べ、聡子と一緒に笑って泣いた。
 まだそれから一年ほどしか経っていないのに、あの頃が充実していて、いまがとても空虚な気持ちになってしまうのはなぜだろう。
 ブリオッシュを実家に連れて言ったときに父が「高敏くんとはどうなんだ」と聞いてくれたが、どうなのかがわかれば私も苦労はしないと、出かかった言葉を飲み込んだ。どうなんだもなにも、夫にはこの二ヵ月ほど会っていない。これまでも仕事が忙しくて会社の近くに寝泊まりすることはあった。しかし、ここ半年ほどそれが激しくなり、すっかり家に寄りつかなくなってしまった。それでも、最初は申し訳程度に電話がかかってきたり、メールがあったりしたが、いまはそれもない。
 けんかをしたわけではない。別れ話をした覚えもない。これは私の勘だけれど、夫が浮気をしているわけではないと思う。もちろん、私が嫌いになったわけでもない。菜穂子はそう思う。
 実際のところそうなのだ。夫がときどき家に帰らなくなった頃、なんだかほっとした自分がいたのだった。聡子と二人でぼんやりいつもの部屋にいて、いつもより少し広く感じられる部屋がとても心地いいと感じた瞬間があったのだ。
 聡子が生まれるまで、私たちは夫婦ではなかったのかもしれない。最近、菜穂子はそう思うようになった。たがいに好きどうしで、たがいに自由で、それぞれに都合のいい時にだけ、たがいを必要とするようなそんな関係だった気がするのだ。
 高敏があまり帰らなくなったとき、ああこの人は気付いたんだ、と菜穂子は思った。別に一緒にいなくてもいいんだ、最初から自分たちはそういう関係じゃないんだ、と。
 夫とそっくりの聡子が自分を頼り、懸命に食べ、大声で泣く姿を見ることで、菜穂子は自分と夫にはないものを強く意識するようになったのかもしれない。

 マンションのエントランスの前で、菜穂子は佇んでいた。
「明日は休みだし、聡子もブリちゃんと遊び疲れて眠っているし。お迎えは明日でいいわよ」
 母にそう言われて、
「じゃあ、私もたまにはゆっくりさせてもらおうかな」
 と答えて、会社から久しぶりにまっすぐマンションに帰ってきたのだった。それなのに、なぜか今夜は、マンションのエントランスに足を踏み入れることができない。
 菜穂子はエントランスの前にあるマンションの住人専用の小さな公園に足を進めて、小さなベンチに腰をかけた。そして、ベンチに腰を下ろした途端に、目の前からブリオッシュがかけてくるという感覚を味わった。ブリオッシュをペットショップで手に入れてから、すべて実家に任せて一度も散歩などさせたことはないのに、菜穂子はなんの違和感もなく、目の前にブリオッシュが駆けてくるところをイメージすることができるのだった。
 月の光に青く照らされた木立の中をブリオッシュが静かに足の爪をカチャカチャと鳴らしながら歩いてくる。その後ろを見たこともないようなスポーティな格好をした父が小走りでやってくる。やがてブリオッシュが菜穂子の足元で立ち止まり、父もそれに従って速度をゆるめ、ブリオッシュのそばで立ち止まる。父の背後で小さな声がして、父が振り返る。きっと聡子だと菜穂子は思う。やがて、そこに母もやってくるのだろう。しかし、と菜穂子は思うのだった。そこに高敏が加わることはないのだろう。そして、いつものようにそんなふうに考える自分を菜穂子は嫌悪した。
 なぜか、自分はいつもそんなふうに自分の都合のいいイメージばかり思い浮かべて、あたかもそれが何かの啓示のように思い込もうとする。そうやって、いままでにどれだけ自分勝手にことを進めてきたのか。菜穂子は月明かりでできる自分の影の中に、自分自身をすっぽりと当てはめてみながら思うのだった。
 もしかしたら、と菜穂子はふと考えた。もしかしたら、ブリオッシュを実家に預けずに自分たちで飼っていれば、高敏と私と聡子でちゃんとした家族にもう一度戻れたのかもしれない、と。マンションで飼えないのなら、無理をしてでも一戸建ての借家を探せば良かったのかもしれない。
 友だちのように楽しく一緒に暮らし始め、たがいの仕事が忙しくなり始めた頃に聡子が生まれた。それまで私たち二人は、たがいの仕事のことしか話していなかった気がする。まるで業務報告のように自分の仕事のことを話してはいたが、夫が自分の仕事に興味を持っているとは思えなかった。菜穂子自身も高敏の仕事は興味がなかった。それなのに、私たちは毎日仕事のことばかり話し続けていた。
 そういえば、仕事のない休日にはほとんど私たちは会話をしなかった。平日に仕事の話しをしてしまうと、話すべきことはなにひとつなかった。
 足元の月影が少しかたちを曖昧にしていた。菜穂子はベンチから立ち上がった。
 今夜は窓辺に椅子を置いてみよう。菜穂子はふと考えた。窓辺に置いた椅子に座って、月明かりに自分の掌を照らしてみようと思った。青く照らされた掌の上に、聡子や高敏やブリオッシュを置く、というイメージに菜穂子は捕らわれた。そして、バランスの悪い自分の掌をもう片方の手でしっかりと支えながら、みんながじっと自分の掌の上に留まっていられるのかどうか、月明かりに照らしながらやってみよう。
 菜穂子はそう考えたが、なぜ、そんなことを考えているのかはわからなかった。