十一月になると瀬戸内の海に太刀魚が回遊してくる。神戸のフェリー乗り場の端から、停泊しているフェリーの船体ぎりぎりに投げ入れた仕掛けで、時には入れ食い状態になる。
小回りのきく小さめの投げ竿に、生きたままのドジョウを巻き付けた仕掛けを取り付けて投げ入れるのだが、冷え込む夜でも次々に釣れると汗をかくほどに上気する。なにしろ、太刀魚は体長が一メートルを超えるものもあり、当たりも大きくとてもスポーティで楽しい釣りなのだった。
洋一は毎年太刀魚の釣れる時期になると父親のスーパーカブの荷台にまたがって自宅から三十分ほどのフェリー乗り場にやってくるのだった。このフェリー乗り場から出るフェリーは淡路島や小豆島へと航行していて、夏には海水浴に出かけたりもしていたので、ここで釣りをしているときも、洋一は夏によく行く淡路島や小豆島がいまどんな様子なのかと思いを巡らすのが好きだった。
洋一が父に連れられてフェリー乗り場に釣りに出かけていたのは小学校三年生から六年生あたりだったと思うが、確か最後の年かそのひとつ前の年に、不思議なことがあった。
真っ暗な海に浮かんでいるフェリーの船体ぎりぎりに洋一が仕掛けを投げ込んでいた。父は少し離れた場所にいて、そこで釣っていたのは洋一ひとりだった。何匹か銀色に光る太刀魚を釣り上げ、青いビニール袋にそれをしまい込んだあと、ぴたりと釣れなくなっていた。さっきまで汗をかくほどに上気していた身体は、一端釣れなくなるとあっと言う間に冷えてしまった。
釣れない釣りほど小学生に辛いものはない。しかし、だからといって「帰ろう」というわけにもいかない。そんな時のために、洋一はラジカセをリュックの中に忍ばせていた。タレントがDJを務めるラジオ番組で聞きながら退屈を紛らせようという魂胆だった。
これまでに、何度か釣れないこともあったが持ってきたラジカセを実際に聞いたことはなかった。今日はちょうどいい。父も離れた場所にいるし周囲には誰もいない。
洋一はラジカセを出して、あまり音が響かないように好きな番組をチューニングした。ちょうど、好きな曲が流れ始めたところだった。最近流行っているちょっとコミカルな曲は、退屈していた洋一の気持ちを明るくした。
さて、もう一度仕掛けを投げ込むか、もう諦めてしまうか、迷っていたのだが、妙なことに気がついた。ただ、停泊しているだけのフェリーに乗り降りをするためのタラップが取り付けられた状態になったいるのである。普通は、この時間こんなものが装着されていることはなかったはずだと思うのだが、確かに付けられている。
なんとなく妙だ、と洋一がそのタラップを眺めていると、学生服を着た中学生らしき集団が五人ほどフェリーから降りてきたのである。いったい、こんな時間に中学生だけが船を降りてくるなんてことがあるだろうか。洋一はなんとなくあまり目を合わせないように、海を眺めているふりをしながら、彼らの気配に全身の神経を向けていた。
しかし、気配そのものがあまりしないのだった。ただ、音もなく五人ほどの中学生が黒い塊として、フェリーを降りてきて、洋一が釣りをしている堤防を歩いていく。ふと空気の流れを感じて、自分の背後に視線を向けるといつの間にそこに立っていたのか、坊主頭の中学生がいた。
「ねえ、ねえ」
中学生は洋一に話しかけてきた。声変わりのしていない、ちょっと高い声がかわいかった。
「はい」
緊張していた洋一はきちんと目上の人と接するように返事をした。
「これはなんね」
坊主頭の中学生は、舫いをつなぎ止めるアンカーの上に洋一が置いたラジカセを指さしていた。
「ラジカセです」
「ラジカセってなんね」
「ラジオです。それと、カセットテープも録音したり聞けたりするんです」
そう答えると、中学生はさらにラジカセに近づいてそこにしゃがむと、ラジオを聞きだした。
「ええ音やねえ」
「あ、はい」
「ええ音や。聞いたことのないような音楽やけど、これは不思議なもんやねえ」
そう言うと、中学生は立ち上がり、
「ありがとね」
と礼を言って立ち去った。
洋一は、しばらくのあいだ中学生が聞いていたラジカセをじっと見つめていた。どのくらいラジカセを見ていたのだろう、あ、と声を上げて中学生が去って行ったほうを振り返った。もう、中学生はいなかった。いなかったけれど、なんとなくその方向に中学生たちの気配の塊のようなものを今度は感じるのだった。
中学生がいなくなってから、急にあたりが暖かくなった気がした。洋一の額からは汗が噴き出した。なんだか、不思議な気持ちになって釣り竿を持ち、仕掛けを投げ入れると、さっきまでまったく釣れなかったのが嘘のように、一振り毎に太刀魚が釣れた。何匹も何匹も銀色に光る刀のような魚が容量の大きなビニール袋からあふれるほどに釣れた。
最初は夢中になって釣っていた洋一だが、だんだんと怖くなってきた。洋一は釣りをやめて帰り支度をし始めた。ビニール袋から数匹の太刀魚が頭をのぞかせている。いつもなら、無造作にスニーカーで太刀魚の頭をビニールに押し込んで、ギュッと口を締めるのだが、その日はなぜかそれができなかった。
どのくらいの時間だったのだろう。おそらく一時間か二時間、洋一はビニール袋からのぞく太刀魚の頭を呆然と眺めていた。太刀魚は歯が鋭く凶暴なので、釣り上げた瞬間に頭を靴で踏みつけて絶命させる。そのため、ビニール袋からはみ出した太刀魚の頭は血を流していた。それぞれに違う血の流れ方を眺めているうちに、隣り合った太刀魚の血と血が混ざり合っていることに気付いたのだった。洋一は、背後から父に「帰るぞ」と声をかけられるまでじっと太刀魚の頭を眺めていた。
帰り際、父はぐるっとフェリー乗り場を見渡してちょっと不思議そうな顔をした。
その後、フェリー乗り場から来るときと同じように、スーパーカブの荷台に乗せられて自宅へと帰った。その帰り道の信号待ちで、洋一は父に聞いた。
「なあ、さっき僕、中学生の兄ちゃんと話してん」
「ああ、そうやな。父ちゃんのとこからも見えてたわ。丸坊主の子やろ」
「うん」
父がそう言ってくれたので、洋一はなんだかとても安心して、父の腰に回した手に力を入れたのだった。(了)