いつの間にか月末になってしまい、またもや泥縄で原稿を書いている。というわけで、今回は、来たる10月3日の「観月の夕べ」公演で踊る「パンジ・トゥンガル」という曲のよもやま話を書いてみる。
「パンジ・トゥンガル」はスラカルタ宮廷に伝わる男性宮廷舞踊で―1650年パク・ブウォノ2世(1726-49)の作という―、1970年代の宮廷舞踊の解禁を受けて舞踊家の故ガリマンにより復曲された。インドネシア国立芸術大学スラカルタ校のカリキュラムに入っていて、3年生で履修する。男性優形(アルス)の極みとも言われる曲で、『パンジ物語』の主人公のパンジとは関係なく、キャラクターのない舞踊である。
曲名は1人のパンジという意味で、本来は2人で戦うウィレンという形式の舞踊を1人バージョンにしたもの。1人版に直したのもガリマンで、私が勝手にアレンジしたわけではない。元の2人版の舞踊名は、通称「パンジ・クンバル」(2人のパンジ)、または「パンジ・スプー」(老いたパンジ)という。ただし、本当は「パンジ・アノム」(若いパンジ)だという意見もある。伝説として、スラカルタ宮廷には王位を継ぐ者が宮廷の宝物が納められた部屋で1人誰にも見られずに踊る舞踊があるといい、それが「パンジ・スプー」である。その舞踊を踊りながら、王たらんとする者は「人はどこから来てどこへ行くのか」というジャワ哲学の問いを自問するが、ガリマンの舞踊はその王の境地に至っていないという意味で「若いパンジ」ということらしい。
若い境地とはいえ、この舞踊はなかなか難解である。テーマとしては、他の宮廷舞踊と同様、内面の葛藤や克服に至る過程を描いているのだが、メタファとしての戦いのシーンがない。女性宮廷舞踊のスリンピやブドヨには戦いのシーンがあって、ピストルを発砲したり矢を射たりする。しかし、この舞踊では剣を抜きそうな感じになるが最後まで剣は抜かないのだ。2人版でもそうで、チャンバラやってカタルシス…というわけにはいかず、徐々に緊張感が積み重なっていくのだが、最後に何か感じるところが残る。
この曲は、宮廷女性舞踊のスリンピやブドヨのように、最初から最後まで息の長い節回しの女声斉唱(ブダヤン)がつくのだが、この舞踊のブダヤンが一番大変かもしれない。というのも、一番単調そうに見えるからだ。もっとも、ジャワ宮廷舞踊曲は現在人の感覚からすればどれも単調だが…。それでも、ブドヨの歌は音高がかなり上がり下がりするし、途中で転調するのもある。スリンピは大きい形式の曲から始まって複数の異なる形式のものをつないでいき、曲が変わるごとに雰囲気が変わる。ところが、「パンジ・トゥンガル/クンバル」の場合はラドランという小さい形式の曲がずっと続き、大きな速度変化がほとんどない。たぶん、歌手にすれば念仏を唱えているような境地だろうな…と想像する。それでも、私にとっては、その淡々とした流れの中に、緊張感が高まったり少しゆるんだり、焦ったり落ち着いたり、といった山や谷がいくつもあるのである。
この舞踊の振付について昔はよく理解できなかったが、最近はなんだか踊らされる曲だなあと感じている。自分の意志で動いているというより、舞台の四隅から目に見えない糸が伸びてきて、引っ張られていくような感じだ。そういう引っ張られていくような動きが多いのである。ジャワでは神にすべてをゆだね(パスラー)、神と合一する境地が理想とされる。大いなるものに身を委ねるように踊れたらよいのだろうが、そこまで悟っていない自分を自覚しつつ、10/3に臨んでいる…。