話をする猫

植松眞人

 車はセダンに限る、とあれだけ言っていたK氏がワゴン車で現れた。
 それも、ファミリータイプのSV車などではなく、荷物を運ぶための効率だけを考えたようなワゴン車だった。それだけで、ああこの人はもう自分が知っているK氏ではないのだと僕は思った。そして、車から降りてきたK氏の、以前とはまったく変わらない少し斜に構えた出で立ちを見て、その印象は強い確信へと変わった。
 よく見なければわからない程度の薄い迷彩柄のパンツと、ビジネス仕様に見えるワイシャツも実は襟が二枚重ねてあるという懲りようだ。十数年前に初めて出会ったときにも、こんなふうにシンプルに見えて、実はややこしい出で立ちをしていたことを思い出す。
 その当時、K氏はこう言っていたのだ。
「車は実用と違う。趣味や。そやから、自分の好みの車を選んで乗るんや。それがどんな車でもかまへんねん。けどな、自分の好みの車に乗られへんのなら、もう車なんて乗ったらあかんねん」
 遠縁のおじさんから譲り受けた古い茶色のクラウンに乗っていた僕に向かって、中古の塗装の剥げかけたシトロエンに乗っていたK氏はそう言った。
 K氏は一角の人物になり損ねた男だった。中堅の商社で中間管理職にまでなったのに、優柔不断な立ち居振る舞いで自分に関係のない権力争いのスケープゴートにされてしまった。四十代の半ばで退職を余儀なくされたのはそのためだ。それからというもの、それなりの才能とそれなりの状況判断の良さが災いして、どこで誰と仕事をしてもうまくいかなかった。
 そして、それなりの才能とそれなりの状況判断の良さが功を奏して、どの仕事も中途半端に終わってしまってはいたが、徹底的に食いっぱぐれることもなかった。そうやって綱渡りのように五十代の終わりまでやってきたのである。僕がK氏に初めて会ったのは彼が四十代の半ば、ちょうど商社を追われてしばらくした頃だった。K氏が商社の中間管理職として面識のあった取引先の男を引っ張り込んで、いわばフリーランスの仲介業のような仕事を始めた頃だったと思う。もうバブル景気から時間が経ち、失われた十年などと言われ始めていたが、景気の動向に敏感な人たちはITバブルの予兆に浮き足立っていた。まだ、ほとんどの日本人が長かったバブル景気破綻の底なし沼からもうすぐ脱出できる、と本気で信じていた幸せな時代だった。
 金が動くと人は笑顔になる。不思議なものだ。そして、K氏も金が動く予兆に敏感だった。金が動き出すとK氏が動き出し笑顔になる。しかし、いつもK氏は初動に失敗して、最後の最後、目の前の大金を逃してしまうのだった。
 バブル景気の頃、K氏はまだ勤め人だったが、空前の好景気到来を予測して、沖縄にリゾート施設建設を会社に提言した。最初は乗り気でなかった会社も、K氏の熱心なプレゼンと、額に汗しながら数多くの協賛企業を集めてきた努力を認めて、ゴーサインを出したのである。しかし、計画がスタートした途端に、事業をともに進めていた建設会社の計画の甘さが露呈した。あちらでほころび、そのほころびをこちらで補填し、補填のツケを向こうで補った。そうこうしているうちに、計画の遅れは一年になり二年になった。結局、K氏が提言した沖縄リゾート計画は、完成したとほぼ同時にバブル崩壊の憂き目にあい、ほとんどの資金を回収できないまま売りに出されることになった。K氏のやることは一事が万事だった。
 僕がK氏と初めて知り合ったとき、僕はまだ三十になったばかりだった。ちょうど一回り年齢が上のK氏はとても頼もしく見えた。そして、何よりも仕事を楽しんでいるように見えた。だからこそ、「どうせばたばた働くんやったら、おもろい仕事のほうがええやん」というK氏の言葉に乗ってしまったのだった。
 K氏が僕に持ちかけてきた仕事は、大失敗した沖縄リゾート計画を数万倍小規模にした話だった。
「わが大阪が誇る有名建築家を招聘して、いまだ大阪市内に残る古くさい長屋のあるエリアをネオ長屋として再生するんや」
 どこかで聞いたことのある話だと、どうして気づかなかったのか、と、今でこそ思う。しかし、当時は画期的な話だと思ってしまったのだった。僕は一も二もなく「手伝います」と手を挙げ、K氏に翻弄される日々の幕開けを自ら宣言してしまった。もちろん、K氏はわが大阪が誇る有名建築家ともまだ知り合いではなかったし、再生する長屋エリアというのも、どこかの雑誌で聞きかじってきた話でしかなかった。
 僕がK氏と一緒に動き回っていたのは一年に満たない時間でしかなかった。最終的にはなにも形にできず、時間もお金も失ってしまったけれど、あの一年間はとても楽しかった。最後の最後に大喧嘩をしてK氏のもとを去った僕だが、三十代の最初に、K氏のようないい加減な山師と仕事をしたことは、いい経験になったと今になって思う。
 一緒に仕事をしていた頃、というよりもK氏の使いっぱしりのように毎日を過ごしていた頃、こんなことがあった。
 ある会社の社長と面談していた時のことだ。ネオ長屋計画への融資を頼んでいたのだが、融資を渋る社長にK氏はこう言ったのだった。
「わかりました。結局は、自分の会社がよかったらいいんですね。僕らが地域のためを考えて動き回っている。社長はそのことを笑ろてはるんです」
 そんなことを言われて、相手の社長も黙ってはいられない。
「なにを言うてるんや。君らのことを笑ろたりはしてないがな」
 横で見ていて、僕はキツネに摘まれたようだった。自分たちの計画に説得力がないだけなのに、自分たちのつたなさを相手が笑っているという妙な話にすり替えている。しかも、そう話しているK氏がどう見ても本気としか思えないまっすぐな視線で訴えると、相手は最後の「笑ろてはるんです」という部分にだけ反応してしまうのだ。僕はK氏と一緒にいる一年ほどの間に、そんな場面に何度か遭遇した。
 K氏は人たらしだった。
 何人がK氏にたらされてしまったか。しかし、不思議なことにK氏の人たらしは続かないのだ。長くても一年。短ければ数週間のうちに、相手はK氏のことを罵倒し始める。最初に信じれば信じた分だけ罵倒の言葉は激しくなり数が増える。
 ネオ長屋計画も元々誰かがとっくに手を着けていたものだし、その規模からいってK氏の手に負えるものではなかった。こうして、K氏の企てはことごとく崩壊していく。
 ただ、これだけは言っておきたいのだが、K氏は底の浅い人たらしではあるが、人をだますつもりはこれっぽっちもないのだ。真剣に考え、真剣に動き、真剣に人をたらし、真剣に風呂敷を広げて、その回収に失敗する。

 僕がK氏から離れたのは、ネオ長屋計画の少し後だった。計画崩壊後、K氏から「ギャラが払えないかもしれない」と言うことは聞いていた。かもしれない、ではなく確実に払えないということも僕にはわかっていたが、それでもいいと思っていた。僕はこの計画のために動いてはいたけれど、それは書類を作ったりアポを取ったり、書記をしたり、書類を申請したりしただけだった。計画のどこにも僕の名前は残されていなかった。つまり、責任をとる必要はないのである。
 責任をとらなくてもいいのなら、K氏がどのようにこの計画崩壊のあと行動するのか、見てやろうという気になったのだ。
 K氏の行動は僕の想像を遙かに越えて浅はかだった。K氏は馬鹿正直に自分を罵倒する人たちに電話をかけ、さらに罵倒の言葉を引きだし、奇跡的に面会の約束がとれた相手と会い、時には殴られる寸前まで相手を怒らせた。なにも、怒らせる言葉を吐いているつもりはないのだが、怒っている相手に真剣に、丁寧に謝ると言うことは、ときに、さらに相手を怒らせることになるのだ、ということを僕は初めて知った。
 この人には情がないのだと僕は思った。行動力もあり、それなりに洞察力もあるのだが、自分を信頼してくれた人に対しても、効率でものを考えてしまうのだ。そうなると、K氏が車に対してもっている信条と彼の行動の軸が違っているような気がしてきたのだが、その理由はやがて解けた。
 K氏が付き合っていた女性がいた。K氏よりも七つ年下だったので当時三十代の前半だったと思うのだが、毅然としていて押しの強い人だった。ナナミさんとK氏は呼んでいたが、それが名字なのか下の名前なのかは知らない。そのナナミさんがK氏の代わりに僕を迎えに来てくれたことがあった。「難波の駅前のロータリーのとこにおってくれるか。あと三十分で迎えに行くから」とK氏に言われて待っていたのだが、現れたのはナナミさんだった。
 K氏が乗り回していた古いシトロエンはナナミさんの車だったらしく、運転しながらナナミさんはシトロエンの運転席にある妙なボタンについておもしろおかしく説明してくれた。そして、K氏が待っている喫茶店の近くまで来たときに、K氏が僕に言ったことと同じ言葉を投げかけてきたのである。
「車って乗る人の趣味がわかっちゃうから、大切に選んだほうがええと思うの」
 同じことを言っているのに、ナナミさんの言葉は僕の気持ちの奥の方に優しく落ちてきた。そして、その言葉の持ち主がK氏ではなくナナミさんなのだということがわかってしまったのである。
「そうですね。このシトロエンはナナミさんに似合うてます」
 僕はそう言ってしまってから、とても生意気なことを言った気がして黙り込んでしまった。ナナミさんはそんな僕を見て笑っていた。やがて、車が喫茶店の前に到着して、ナナミさんは車をとめた。僕が降りようとすると、ナナミさんは呼び止めてこう言った。
「ねえ、あの人に言うといてくれる。この車、もう貸さへんからって」
 僕が振り返ると、さっきよりも大きな笑顔をナナミさんは見せていた。
「けど、車がなかったらK氏は困るんとちゃいますか」
 僕がそう言うと、ナナミさんは、うーん、と言ったまましばらく黙った。そして、顔を上げた。
「でもね、なんぼ乗っててもあの人、この車に似合わへんねんもん。そんな人に乗られてたら、車がかわいそうやわ」
「そうですね」
 僕が答えると、ナナミさんは手を振ってアクセルを踏むのだった。

 僕はそのまま喫茶店には入らずに、地下鉄の駅まで歩いて自分のマンションに帰った。そして、その日のうちに荷物をまとめ、K氏からもらったままになっていた僅かな報酬で、東京へと引っ越したのだった。
 あれから十数年たって、僕は以前、K氏が勤めていたのと同じような中堅の総合商社で仕事をしていた。中途採用でもいいよ、と言ってくれた社長のもとでそれこそ真面目にこつこつと仕事をしてきた。K氏を反面教師のようにして僕は仕事をしていた。今の会社の社長は、手堅く仕事をまとめていく僕をきちんと評価してくれている。
 僕は注意深く、K氏のように大風呂敷を広げないようにして、K氏のように必要以上に人から期待されることがないようにできる限り冷静に仕事を進めていく。そうすることで、相手の期待を裏切って罵倒されるような状況を避けてきたのだ。そして、何よりもK氏のようにならないために、相手の気持ちを真っ先に考えて仕事を進めてきた。
 この仕事が好きか嫌いかと聞かれたら、答えは好きだと思う。しかし、これが唯一なのかと聞かれると正直、気持ちは揺れてしまう。逆に、K氏はきっと商社マンのような仕事が大好きだったんだろうな、と思う。情もなく、人から罵倒されても仕事が続けられるのは、きっと仕事が好きだ、という一点突破しかないと思うからだ。それなのに、大好きな仕事から、いつも「嫌いだ」と宣言されてしまうような結末になるのはなぜなんだろう、と僕はときどきK氏を思い出していた。そして、最近になって、ああ、それでも仕事が続けられるように、K氏には情がないのか、と思うようになったのだった。

 インターネットは苦手だった。それでも、今の世の中で仕事をする上でまったく使わないという訳にはいかない。会社の中にも情報ネットワーク部門という課ができた。コンピュータネットワークを保守管理するだけではなく、若い社員を使って、社内のネットリテラシーを向上させるのだと言う。社員一人一人がメールアドレスを持っているだけで充分だと思うのだが、SNSでアカウントを持つようにと促された。いまのネットで多くの人たちが何をしているのか、自分たちの目で見てほしい、ということだった。
 僕はなんとなく抵抗してきたSNSのアカウントを業務命令で持つことになった。そこはとてもお節介な世界で、システムが「これがあなたに向いている」と勝手にショッピングサイトに誘導する。「この人はあなたの知り合いに違いない」と写真とプロフィールを見せつけてくる。その数多くの写真の中に、僕はK氏を見つけたのだった。
 僕がK氏を見つけたということは、K氏も僕を見つけたということで、その日のうちにK氏からSNSの友だち申請が来た。なんとなく小さな小石を腹の中に置かれる気分で、承諾のボタンをクリックする。これで、十数年の時を越えて、僕とK氏はSNS上では「友だち」である。それだけでも、僕にとってはかなり激動の数日間だった。仕事をしながら、勝手にK氏のことを良くも悪くも反面教師として時折思い出す、という穏やかな日々を手に入れるまでには僕だってそれなりに時間を必要としたのだ。それがたった数日で、K氏がネットを介して具体的な存在として再び僕の前に現れたのである。
 翌日、僕はデスクのPCの電源を入れた。いつものように、その日の業務計画書の項目に記入していると、昨日インストールしたばかりのSNSの通知ボタンが点滅している。クリックするとK氏の写真とコメントが現れた。
「申請の承認ありがとうございます。久しぶりですね。急ですが今日、東京へ行く用事があるのですが久しぶりに会いませんか」
 僕はコメントに目を通しながら、K氏の声色まで思い出してしまう。そして、返事を保留したままで昼食を食べ、午後からの営業途中にコーヒーショップで休憩しながら、携帯電話でもう一度K氏からの通知を眺めた。そして、今なら昔話のようにあのころのことを話せるのではないかと思うようになったのである。
 とは言いながら、今日の予定を承諾するには夕方近くになっている。今日の夕食を食べるくらいならいい。それも、夜中にまではなりたくない。
「親族の法要の準備で、午後十一時くらいには赤羽に行かなくてはなりません。午後十時くらいまでなら時間があります」
 僕はK氏にコメントを返した。携帯をポケットにしまうまでに、返信があった。

 ギリギリまで話せるように、とK氏は言い出して、赤羽の駅の近くで僕たちは待ち合わせをした。配送の仕事でもしているかのような、飾り気のないワゴン車でK氏は現れた。服装は以前と同じように地味そうで派手な、いかにもK氏らしいものだった。
 二時間ほど僕たちは一緒にいたのだが、ずっとK氏が話続けていた。以前は、K氏がひとしきりはなすと、「君はどう思てるの?」と僕の返事を促し、その返事の内容がどうであれそのまま持論を展開して、その持論がひとしきり終わると、再び僕に「君はどう思てるの?」と聞く、ということの繰り返しだった。
 しかし、十数年ぶりにあったK氏はずっと一人で話続けていた。僕に問いかけることもなく、僕の返事を待つこともなく、ずっと一人で話続けた。僕は途中からK氏が何をはなしているのかわからなくなった。最初は以前一緒にしていた仕事の話だった。だいぶ、仕事の規模が大きくなっていたし、失敗したことよりもうまくいった部分が華美に飾りたてられていたけれど、K氏は概ね事実に裏付けられた思い出を語り続けた。途中からK氏の話は僕が去ってからの話になり、そこでは僕が想像もしえなかった成功があり、明るく希望に満ちた人物たちが登場して、みんながK氏を慕い尊敬し従っていた。
 しかし、そんな話をするK氏の瞳はとろんとしていて、明らかに正常ではなかった。僕はおそらく知らず知らずの間に、痛々しい視線を投げかけていたのかもしれない。僕が気が付くと、K氏は黙って僕を見つめていた。
 いつ頃からK氏が僕を見つめていたのか。口を閉ざして黙り込んでいたのか。僕にはわからなかった。しかし、だいぶ長い間、僕はK氏を呆然と眺め、K氏は黙りこくりながら僕を見つめていたのだろう。
 騒がしい居酒屋の中がしんと静まりかえったような気がした。背中を冷たい汗が流れた。K氏が小さく口を開いた。何を言われるのか、僕は一度瞬きをしてから、意を決したようにK氏を見つめ直した。K氏は少し微笑みをたたえた唇をわずかに動かして言葉を発した。
「うちの猫は言葉を話すんだよ」
 K氏はそう言って、テーブルの上の食べ残しの料理に視線を落とした。そして、そのまま一言も話さなくなってしまった。
 僕は返事をすることもできず、K氏と同じようにテーブルに視線を落とした。僕たちのテーブルがしんと静まりかえるのと同時に、隣のテーブルの話し声が大きくなり、僕たちを包んだ。中年の男が一人とその部下らしき男女三人ほどが身振り手振りを交えて話し込んでいる。一人だけいる女が、私は猫なの、と言う。いや、お前はどちらかと言うと犬だよ、と男たちが言う。だって、恋人ができても尻尾を振ったりしないもん、と女はふてくされたように口をとがらせる。その様子を見ながら、いちばん年下らしき男が、猫は自分のことをそんなふうに主張しないと思うよ、と言うとその場は大きな笑いに包まれた。
 そんな会話を聞きながら、ふと視線をK氏にあげると、K氏は唇を噛みしめていた。僕はいたたまれなくなって、隣のテーブルの女を見た。女は大きな口を開けて笑いながら、次の話題を待ちかまえているのだった。(了)