吾輩は苦手である

増井淳

 吾輩は苦手である。なにが苦手といって、あれもこれもそれも、いろんなモノゴトが苦手である。その中の一つを取り出してみようとしても、モノゴトというのは複雑にからみあっていて、かんたんには説明しかねる。苦手のモノゴトが多すぎて、とかくこの世は生きづらい。
 そうは言っても日々は刻々と過ぎていき、苦手のモノゴトもつぎつぎと押し寄せるので、とりあえず、それらについて書いてみるといいかもしれない。文章は苦手だが、書くことで悩みを吐きだすということができるかもしれないではないか。

 爪切りが苦手である。
 これまで数えきれないほど爪切りをしてきた。子どものころは、ヤットコというかニッパーというか、そういう形の器具で爪切りをしてきた。仮にヤットコ型とでもしておこうか。このヤットコ型爪切りは、先端の刃の部分を爪にあててハンドル部分を握って切る。しかし、不器用な子どもだった吾輩には、「ハンドル部分を握る」のがどうにもうまくいかなかった。力の加減がむずかしいし、握ることに気を取られるあまり、爪に当てた刃の位置があっと言う間にずれてしまう。おかげで、何度も深爪をして痛い目にあってきた。
 ヤットコ型のあとには、中学か高校の卒業記念にもらった爪切りを使った。これはハンドル部分をくるりと回転させて「テコの原理」を使い爪を押し切るタイプで、今でもごく一般的なものだ。仮にテコ型としておこう。このテコ型爪切りは、ほぼねらった位置で爪を切ることができるし、テコの作用により力もそれほどいらない。大人になっても不器用な吾輩にも比較的容易に爪を切ることができた。
 だがしかし、爪というのはそもそも曲線状をしていて、その曲がり方も人それぞれ。吾輩の場合、左右のはしっこの皮膚と接する部分が、急激に曲がっている。よって、そのあたりは、爪の先端の中央部を切った後で、爪切りの角度をかなり変えて切らないと切り残しが発生する。つまり、一つの爪を切るのには、まず真ん中部分を切り、その後に左右をそれぞれ切らなければならない。おまけに、左右のはしっこの爪は、なぜか真ん中あたりよりやわらかくなっていて、とても切りにくい。さらに曲がり方がはなはだしいので、はしっこのさらにはしっこに切り残しができてしまう。
 この切り残しが厄介である。だいたいはごく細いものなので、手でひっこぬいたり、歯で噛み切ったりしてしまう。すると、時々だが、まわりが赤白くはれあがって「ひょうそ」の症状を呈することになる。これはかなり痛い。放っておくと腱や骨に炎症が波及したり、皮下組織が壊死したりすることもある。何度か痛い目にあった吾輩は、苦手な病院に何度も行くハメに陥った。たかが爪切りと侮ることなかれ。

 ところが、数年前、テレビだったか折込チラシだったかは忘れたが、通販で「電動爪削り器」に出会った。これは亀の子タワシというか、パソコンのマウスのような形状をしていて、その先端に細長いローラーがついている。そのローラーがスイッチを入れると回転するので、そこに爪を当てておくだけで削れていくというものである。押し当てるだけだから、力もいらず、角度も変えやすい。宣伝文句によれば、「力が弱い方でもご使用いただけます」「断面もきれいに仕上がります」「小さくて柔らかい爪にもおすすめ」とあった。よし、これで苦手の爪切りとも決別できるではないか。
 しかし、吾輩は電気製品を買ったり使ったりするのが苦手である。
 数年前、掃除機を買った。二三日後、猫が床に水をすこしこぼしていたので、それを掃除機で吸った。すると、数分後、変な臭いがしだして、掃除機が止まった。それからは何度スイッチを入れ直しても、びくともしなくなってしまった。
 さらに数年前、皿洗いが苦手な吾輩は、食器洗い機を買ったことがあった。大きさとかを事前に調査して買ったが、届いた品物は予想よりも大きかった。というか、台所に置いたのだが、食器洗い機の存在がでかすぎて、洗い終わった食器を置いておくスペースがなくなってしまった。結局、食器洗い機は、食器置き場になってしまった。
 かくのごとく電気製品も苦手だが、「電動爪削り器」の魅力のトリコになっていた吾輩は、思い切って購入した。
 商品が届いて、さっそく使ってみると、あまり力を入れなくてもいいし、きれいに削れる。削り残しもほとんどない。なかなかいい買い物だったと思ったのだが、時間がかかるのだ。手の爪を全部削るだけで、20分以上はかかってしまう。長くのびた爪だとさらに時間がかかる。削りカスも出るのでそれを始末し、ローラー部分をその都度きれいにし、あれやこれやで30分はかかってしまう。足の爪まで削ろうとすると1時間はかかる。テレビでも見ながら削れるならいいのだが、音がうるさくてそういうわけにもいかぬ。
 結局、電動爪切り器はほとんどお蔵入りになった。
 
 吾輩は数匹の猫と暮らしている。猫は爪切り器など使わずとも、ダンボールや家具の角、壁紙などそのへんにあるもので爪を研ぐ。ニンゲンのからだより猫のからだの方がよくできていると思わざるを得ない。
 室内にいる猫なので、爪切りをしてあげることもあるが、猫は手先をぎゅっとつまむと爪が飛び出すので、吾輩の爪を切るよりかんたんだ。
 しかし、1匹の猫だけは吾輩同様、爪切りが苦手らしく、爪を切らせてくれない。この猫は我が家に一番古くからいる白猫で、もとは野良猫である。もう10年近く我が家にいるが、未だに野性を失っていない。実は、この稿を書いているあいだに、その白猫に足を引っ掻かれ、出血して腫れ上がり、病院のお世話になった。
 つくづく吾輩は爪切りが苦手である。