先日、カルノの戦いの演目のワヤン(影絵)公演を大阪で見た。というわけで、今回はカルノの演目に関する公演の思い出をいくつか取り上げたい。
カルノはインド伝来の叙事詩『マハーバーラタ』に登場する武将の名前である。『マハーバーラタ』では、王位継承に絡んでコラワの100人兄弟が従兄弟のパンダワ5人兄弟を陥れようと姦計を繰り返し、最終的に両者が大戦争に至る過程が描かれる。パンダワ5人兄弟の3番目が美丈夫として有名なアルジュノで、彼はパンダワ王と母クンティの間に生まれた。ところが、クンティには王との結婚前に太陽神との間にできた子がいた。それがカルノである。カルノは生まれてすぐに川に流されたが、拾われて無事成長し、コラワで取り立てられていた。大戦争が進むとコラワ軍のカルノとパンダワ軍のアルジュノも直接対決することになる。血を分けた我が子の対決をクンティは悲しむも、カルノは恩義のあるコラワへの忠誠を誓い、アルジュノと戦ってその矢に倒れる。
このカルノとアルジュノの戦いを描いた演目が『カルノ・タンディン』なのだが、血を分けた兄弟が敵味方に分かれて戦うことになるという重い宿命を描いた場面なので、ジャワではその上演の前には供物を用意して無事に済むように祈る儀式が行われる。私自身も、スリウェダリ劇場で舞踊劇が行われる前にその儀式に参列したことがある。その時は芸大の先生の調査の助っ人として駆り出されたのだが、この儀礼は観客に見せるために行うわけではないので、貴重な体験だった。
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劇仕立てではない『カルノ・タンディン』という舞踊作品もある。アルジュノとカルノの2人の戦いの場面をウィレン(戦いの舞踊)形式で描いている。PKJT(中部ジャワ芸術発展プロジェクト)が始まって間もなくの1970年か1971年に宮廷舞踊家ウィグニョ・ハンブクソ氏を迎えて復曲されたとのことで、ハンブクソ氏にも師事していたスリスティヨ・ティルトクスモ氏もその様子を見に行ったとのことだった。芸大の授業カリキュラムにも入っていて、私も履修した。
登場の曲で2人が舞台に現れ、着座すると始まるのが「ゴンドクスモ」の曲。これは宮廷女性舞踊の「スリンピ・ゴンドクスモ」で使われる曲である。とても優美な曲で男性の戦いの舞踊に使われるとは思ってもみなかったので、初めて曲を聴いた時には仰天した。けれど、ワヤンの中で最も優美なアルジュノのキャラクターに似つかわしく、また曲が抑制的であるだけに、一層2人の宿命の悲しみがじんわりと伝わってくる気がする。この曲の場面では、2人は向かい合い、シンメトリなフォーメーションを描きながら踊る。曲が「スレペッグ」に変わると戦いの場面になり、2人は剣を抜く。2人は入場する時から手にダダップと呼ばれる武器を持っているのだが、剣で突きダダップでかわす攻防を続けた後に、ダダップを置いて弓の戦いとなる。カルノが負けると曲は「アヤアヤアン」に変わり、勝者が敗者の周囲を巡り、そして入場してきた時のように戻っていく。シンメトリに動く舞踊の場面、戦いの場面、勝者が敗者の周囲を巡る、というのはウィレン形式の舞踊に共通する型/構成である。
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ジャカルタの舞踊家エリー・ルタン氏の作品『クンティ・ピニリー』(1997)も忘れ難い。伝統舞踊の型をベースとするコンテンポラリ舞踊。私がアルス(男性優形)舞踊で師事していたパマルディ氏がカルノ役で出演するので、ジャカルタまで見に行った。ちなみにアルジュノ役をやっていたのが、後に宮廷舞踊で師事することになるスリスティヨ・ティルトクスモ氏。私にとってはアルス舞踊の双璧の2人が出演していて、その抑えた優美の動きの中にある緊張感に震えた。一騎打ちの場面になると、2人はカイン(腰布)の中に隠していた仮面(抽象的な表情)を取り出してつける。心ならずも宿命により戦うということが見事に可視化されていた。この作品では血を分けた我が子同士が戦うことになるクンティの苦悩に焦点を当てている。エリー氏の作品はいつも影にいる女性の人生の悲しみが浮き彫りにされていて、こんな風に女性を描きたいと思えた作品。
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国際交流基金と横浜ボートシアターが主催し、日イネ合作で制作された『マハーバーラタ 耳の王子』(1996年)も、カルノの物語を下敷きにしている。横浜ボートシアターは仮面を使うのが特徴で、この作品でも色々な仮面が使われている。ジョグジャカルタにあるノトプラジャンという大きなプンドポ(ジャワの伝統建築)で上演されて留学生の友人たちと見に行った。インドネシア人出演者はインドネシア語で、日本人出演者は日本語で台詞を言うので、両方分かる留学生が一番面白さが分かるかもね…と話しながら見た記憶がある。当時は留学して間もなくのことで、こんな風に日イネでコラボレーションできたらなあと思う原点になった作品。
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最後に、先日の公演というのは2月23日に大阪の箕面市立文化芸能劇場小ホールで上演されたワヤン・クリ(影絵芝居)『マハーバーラタ~カルノの一生』のこと。主催はマギカマメジカ、ナナン・アナント・ウィチャクソノ氏が企画・構成・脚本で、ダラン(人形操作+語り)も務める。ガムラン音楽は演奏するダルマ・ブダヤのオリジナル曲が中心で、一部に箏も使われる。舞台中央奥に影絵の幕がセットされ、その手前にガムランが並べられ、ダランやガムラン演奏者は舞台奥の方を向いて座る。つまり、ジャワでよくやるように、観客は演奏者側/影が見えない側から見る設定になっている。そして幕の上には巨大なスクリーンがあって、そちらにも時々映像が投影される。そして、舞台下手にはもう1人の語り手(イルボン氏)が演台の前に立ち、たとえばクンティが太陽神と出会ういきさつやコラワが姦計をめぐらすなどの込み入った事情を語る。
ダラン以外に語り手がいたり、影絵用のスクリーンの上にさらに映像用スクリーンがあったり、ガムランの新曲以外にも箏を使ったりと、客観的に見れば新しい要素が満載の作品なのに、全体として何の違和感もなく腑に落ちてくる作品という感じだった。伝統的なジャワの影絵を見ているような自然さがあって、途中でふと、そういえば使われている曲は新作だな…と気づいた次第。箏はカルノの深い心情に寄り添う2場面だけで使われる。箏の音階はガムランの音階に近いとのことだったが、ガムランの音になじみながらも異なる音色で立場的に微妙なカルノの複雑な心情を伝えていて効果的だった。
最後にカルノが倒れるシーンで、ナナン氏は影絵のスクリーンの前で花びらを撒く。戦いに散ったことの暗示であり、カルノに対する散華でもある。ジャワではお墓参りをすると、花を立てるのではなくバラの花をほぐして花びらだけを撒くのだが、この瞬間にナナン氏は語りの担い手から祭司/鎮魂者に変わった…と私には見えた。暗くなった舞台でナナン氏にスポットライトが当てられる。霊となった人形を持ったナナン氏が立ち上がり、観客の方に向き直り、歌いながら舞台前方にゆっくり進んできて舞台は終わる。この時、カルノの魂が昇天していくのが見えた気がした。(舞台奥の幕に向かって座っていた演奏者や私達観客の構図は、なんだか涅槃図のようでもあった。)影絵の幕に映し出されるカルノの実人生、その上のスクリーンに映しだされる、カルノの知らないところで起きる出来事(出生の経緯やコラワとパンダワの因縁)…。しかし、第三者=観客として見ていたはずのカルノの人生の最期にいきなり当事者として直面した感があって、単に劇場でワヤン上演を見たというのではなく、ワヤンを見るとはどういう体験なのかということを体験できた気がする。