今回は以下の公演についての感想。
2025年2月23日
大阪大学中之島芸術センター3階 アート・スクエア
コンセプト・構成:ナナン・アナント・ウィチャクソノ、福岡まどか
出演:マギカマメジカ(ナナン・アナント・ウィチャクソノ、西田有里)、
ダルマ・ブダヤ、イルボン、もうりひとみ、
岸美咲、ローフィット・イブラヒム、福岡まどか
マギカマメジカ、ダルマブダヤ、イルボンが組む公演を見るのはこれで3回目。過去の公演についても『水牛』に以下の通り書いているので、併せて読んでもらえると面白いかもしれない。
2023年12月号:ワヤン公演『デワルチ(デウォルチ)』
2022年3月号:『カルノ・タンディン(カルノの戦い)』
●ミニレクチャー
この公演には福岡まどか氏が代表を務めるラーマーヤナ研究プロジェクトが共催に入っている。開演30分前より約20分間、福岡氏による物語の内容と今回の上演に関するミニレクチャーを行うとちらしにあった。つまり、このレクチャーは公演外との位置づけだったのだが、個人的にはこのレクチャ―部分もプロローグとして公演に含めても良かったのに…と思う。この解説はダラン(人形遣い兼語り)や講談風のイルボン氏の語りとは異なるものの、やはり今回の公演を担う1つの語りでもあったと思うのだ。このドラマの構成を生み出したというのは、今回の公演成功の大きなポイントの1つだと思う。福岡氏は芸術実践も行う研究者で、実際この公演にも少し舞踊で登場する。解説の口調も平易で、公演と一体のものとしてすんなり入ってくるものがあった。
●構成
ラーマーヤナ物語の中心は、ラーマ王子がシンタ姫を王妃に迎えるも王位継承争いがあって王妃や弟と共に森に追放され(インドネシアのプランバナン寺院で上演されているラーマーヤナ舞踊劇では、この森への追放から物語が始まる)、その間に魔王にさらわれた王妃を魔王の国から奪還し、晴れて王国に帰還するという部分である。この前後に、ラーマ王子が実はビシュヌ神としてこの世に転生した話、さらにビシュヌ神として昇天する話がつく。
しかし、本公演ではラーマらが王国に帰還した後から、いわば後日譚の部分から話が始まり、シンタがワルミーキの求めに応じて身の上を語るということで、通常のラーマーヤナ物語がイルボン氏の語りによって語られる。後日譚から話を始めるのか!という驚きとともに、回想すればラーマーヤナの物語を全然知らない人にもシンタの今の身の上に共感できるのか!と気づく。
帰還する前に魔王に長年捉えられていたシンタの身の潔白をラーマが疑い、彼女が火の中に飛び込んで潔白を証明するのだが、王国に戻っても国民から身の潔白を再度疑われ、ラーマはシンタを森に追放せざるを得なくなる。その時すでにシンタはラーマの子を身ごもっており、叙事詩ラーマーヤナを編纂したとされるワルミーキにかくまわれ、双子の王子を出産する。ラーマ王は成長した王子と森で出会い、シンタにも王国へ戻るよう頼むがシンタはそれを拒絶し、割れた大地にのみ込まれるように戻っていく…。そしてラーマもビシュヌ神として天界に戻っていくのだが、この公演では、シンタの人生の軌跡を女性としての尊厳、女性としての立場から見つめなおすことに焦点を当てている。
というわけで、めでたしめでたしで終わるラーマーヤナ舞踊劇を見たことがある人こそ、全然何も知らない人以上にショックを受けるだろう。ちなみに割れた大地に戻っていくような話の結末は他の神話でも聞いたことがあるのだが、どこの神話だったか思い出せない。
●ステージ、音楽、語り、ワヤン(影絵)、ダンス
会場はそれほど広くはなく、1回につき観客収容数は50人。平土間奥に影絵用のスクリーンが設置される。観客は影絵奏者の側から見るようになっている。影絵用スクリーンの左右に、出演者入退場用兼照明などを当てるための白い幕が左右に吊られている。平土間中央に座布団席が数列、後方に階段状椅子席が数列設けられ、座布団席を挟むようにガムラン楽器が左右に分けて設置される。私は座布団席の一番左側(左側楽器の横)に座った。このようにガムラン楽器が左右に分かれると演奏しづらいものだが、今回は会場が狭かったので言うほど演奏しづらくはなかったようである。観客の側からするとこれが良い効果を生んでいて、音に遠近が生まれた。
音楽は今までと同様、伝統曲とオリジナル曲が使われたのだが、オリジナル・ガムラン曲は語りを邪魔しないように楽器の音を響かせるものが多かった。また、効果音として鳥の鳴き声の笛が鳴ったり、ラーマがシンタの名を呼ぶところで、出演者もそれぞれにその名を呼びかけた。演者が左右に分かれているせいで、それらの音・声が立体的に遠くから近くから左から右から聞こえてくる。それがまるで洞窟の中でエコーを聞いているようにも感じられ、狭い空間の中に奥行きのある世界が広がっているような気がした。
オリジナル曲として今回は電子音楽も使われた。これはシンタが大地にのみ込まれていくシーンなどで使われたのだが、この世の裂け目の中からそれまでと違う世界が顔を出したような感じで非常に印象的だった。ガムランとの音の異質さがうまく生かされていたと思う。
今回はイルボン氏ともうりひとみ氏が語りを担う。2人は冒頭で関西弁の男女として登場して漫才のように物語のつかみ役をやったのち、幕の左右に置かれた語りの席(椅子)に座り、朗読劇のように2人で語っていく。ナナン氏が影絵のスクリーンの前に座る。基本的に、ナナン氏がワヤン人形を操りながら語ったり、椅子席でイルボン氏ともうり氏が語るのはリアルタイムで起こる出来事で、床に座ったイルボン氏によってハリセンを叩きながら講談調で語られるのはラーマたちが森に追放され王国に帰還するまでの回想部分だったと思う。
今回、影絵の幕の表に座って華麗な人形操作を見せ、語りを聞かせるのはナナン氏である。ジャワではこれが普通で、影絵と言われているけれど実際には観客のほとんどは影の見えない側に座っている。しかし、今回はスクリーンの裏側にも人形遣いがいて、主にグヌンガンと呼ばれる山や神羅万象を表す形のものを操り、私達観客に影を見せてくれた。現在ではこのように幕の両面から人形の実際の姿も影も見せる演出が多くなってきているようだが、私自身留学中にジャワでこのような演出を見たことはない。しかし、どちら側も見たいのは当然だし、奥から投影される影は表から見ている人形劇の世界に、さらにこの小屋全体の壁に天井に不穏な影南下を投影する。この世を立体的に見せてくれる。
ラーマが成長した子供たちと出会うきっかけは馬祀祭(アスワメダ)である。王が放った馬が通るすべての場所で破壊や戦乱が起こるものだという。イルボン氏は裏にひっこみ、冠を被ってラーマ王として影絵スクリーンに影を映し、さらに馬のワヤン人形を持って舞台に飛び出してきて、縦横無尽に暴れ回った。それはシンタを失ったラーマ王の怒りと悲しみの発露なのだろうと思われたが、この儀式を何のために開催するのか少し分かりづらかったのが残念である。台詞で分かりやすく言っても良かったような気がする。
シンタは突然大地の割れ目にのみこまれ、ナナン氏が手にするラーマ王の人形は怒りで巨大な鬼となっている。影絵の右側にある幕の内側が明るくなって幕が透明になり、奥に小さな空間が現れ、そこで福岡氏のダンスが最初仮面なしで始まった。彼女は大地の奥にいるシンタ…?プログラムの解説だと大地の女神のようだが、シンタでもあり女神でもある、とも受け止められる。大地の底との距離感をこの空間で表したのは素晴らしい。もっとも、ワヤンやガムラン音楽は中部ジャワ風なので、実は西ジャワ様式のダンスや衣装は私には少し違和感があった。このあと仮面をつけるのだが、西ジャワの仮面は普通パンジ物語に使うし…。しかし、女神であるなら、ラーマーヤナ界の人間と衣装が違っていても、顔が違っていてもおかしくはない。仮面をつけた女神が透明の幕から出てきて、右手を前に突き出しながら静かに前進してくる姿に、何か物言えぬ悲しみを覚える。
という風にワヤンは終わるのだが、音楽・音に奥行きが感じられたように、空間にも奥行が感じられた舞台だった。ワヤンのスクリーンで展開される世界、その世界から観客の方に投影された影、スクリーンの前で後ろで役者イルボンが駆け回る空間、突然現れる大地の裂け目…、そして上では語らなかったが、電子音などと共に世界を染める赤や青の照明…。この上演空間が狭いだけに、そこに生み出された世界の多層性に引き込まれた。おとぎ話のように、ひょうたんの中に入ってみたら別天地が広がり、長い時間が凝縮されているような感覚を味わった舞台だった。