ワヤン公演『デワルチ(デウォルチ)』

冨岡三智

先月、東南アジアのイスラム化に関する国際シンポジウム:”Islamization in Southeast Asia as reflected in literature, archival documents and oral stories” の一環としてジャワのワヤン(影絵)『デウォルチ』の公演があった。というわけで今回はその紹介と簡単な感想。

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『インドネシア・ジャワの影絵芝居ワヤンとガムラン デワルチ』
■日時:2023年11月3日18:30~20:30
■場所:大阪大学箕面キャンパス・大阪外国語大学記念ホール
■出演
 影絵:マギカマメジカ(ナナン・アナント・ウィチャクソノ、西田有里)
 語り:イルボン
 演奏:ダルマ・ブダヤ、Al-aliyin
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『デワルチ』(ジャワ語読みでデウォルチ)はインド伝来の叙事詩『マハーバーラタ』の一節として上演されるが、実はジャワで創られた演目である。ジャワにイスラムを広めたワリ・ソンゴ(イスラム九聖人)はスーフィズムの系統で、布教にワヤン(影絵)や音楽などの芸能を積極的に利用したと言われる。『デワルチ』の物語は18世紀後半のスラカルタ宮廷詩人ヨソディプロI世の創作とされるが、このような土壌から生まれたと言える。
 
『デワルチ』の主人公はビマ(ジャワ語でビモ)である。『マハーバーラタ』は、王位継承に絡むコラワ一族の100王子とその従兄弟のパンダワ一族の5王子の対立を描く。ビマはパンダワの5王子の1人で、剛勇な人物である。ある日、ビモは師の命令で生命の水を求める旅に出る。実は、これはビマを倒そうとするコラワ側の奸計によるもの(ビマの師匠もそれにのせられた)だった。ビモは大海の底で大蛇と戦って死にそうになった時に、自分に似た小さい人物に出会う。それこそ彼自身の内なる神デワルチだった。ビマはデワルチから生命の真理を授けられ、再び師匠の許に戻る。…という物語で、神との合一、マクロ・コスモス(大宇宙、大自然)とミクロ・コスモス(小宇宙、人)の合一、…などのイスラムの教え、ジャワの教えがテーマになっていると言われる。

会場は平土間形式の四角い空間で、真ん中に影絵の幕を張ってその両側に観客席が設けられた。観客は自由に移動して見て良いとのことだった。ダラン(人形遣い兼語り)はジャワ人のナナン氏で、登場人物の会話は彼によって日本語で語られるが、複雑な状況説明は日本人のイルボン氏が講談のようにハリセンを打ちながら語る。ガムラン演奏はダルマブダヤで、そのメンバーの1人が箏も演奏した。ガムランの伝統曲もあるが、そのオリジナル曲、また箏(こと)のオリジナル曲が多い。このチームのワヤン公演を私は昨年2月にも見ているのだが(水牛2022年3月号記事「カルノ・タンディン(カルノの戦い)」を参照)、ジャワのようにシンデン(女性歌手)が華やかに競演するワヤンより、音楽と語り中心のこのスタイルの方が物語のテーマが際立つ気がする。

なお、演奏にはAl-Aliyinという団体(6,7人)も出演して歌を歌った。これは大阪を拠点とするNU(インドネシア最大のイスラム系組織:ナフダトゥル・ウラマー)のショラワタン団体で、日本在住のインドネシア人たちが参加している。ショラワタンはジャワのイスラム歌唱のことで、ルバナという片面太鼓を叩きながら歌う。ルバナはアラブ起源で、マレー系の国々でイスラムの祈りの音楽に使われる。ちなみに、この団体の人によるとNUのショラワタン・グループは現在日本に11あり、この大阪支部は9番目の設立だそうだ。

さて、今回の演出で印象的なのは第一に音楽構成である。ビマがデワルチに出会うまではインストルメンタルな曲できたのが、その後、歌が入ってガラッと雰囲気が変わるのだ。ビマがデワルチに出会う。音楽は箏がアラブ風のメロディを奏でる。ビマはデワルチに「私の耳から私の体内へと入りなさい」と命じられる。その体内に入ると、月と太陽が互いに引き合うように巡る幻想的な大宇宙がスクリーンに広がる。ここで音楽は『ロジョスウォロ Rajaswala』というガムラン伝統曲に変わり、演奏者が一斉にその歌を厳かに歌い出す。この歌い出しを聞いたとき、本当にぞわっと鳥肌が立った。それまでずっと歌がなかったから、人の声にものすごく力が感じられる。しかも、この曲の歌詞は「太陽、月、そして星」で始まり、「大宇宙」も含んで宇宙を構成する要素が歌い込まれているから、この場面と歌詞がぴったり合ってもいる。そのあと音楽はショラワタンになり、たくさんのビマが出て来てくるくると回る。この場面は、ビマが次第に神との一体感を感じていくことを表現しているとのこと。先ほどの月と太陽といい、回る動きにスーフィーの旋回舞踊が連想される。ルバナの音と男性ばかりの歌声には、さきほどの歌とは異なる高揚感がある。そのあとに静かに『イリル・イリル Ilir-Ilir』の歌が流れる。この歌はイスラム九聖人の1人スナン・カリジョゴが作った歌だとされていて、悟りを得て終焉に向かっていくような境地が感じられる。ナナン氏も、ビマの心の声「私はすでに感じることができる。私がどこから来て、どこへ向かうのかを」を表したとのこと。こんな風に、神との合一の境地に至る過程が音楽的段階的に表現されている。

第二に印象的だったのが、ビマがデワルチの体内に入るシーンの視覚表現だ。自分より小さい者の体内へ、しかもその耳の穴を通って入るという、言葉の上ではナンセンスでしかない現象をどのように影絵で表現するのか、全然見当がつかなかった。だが、ナナン氏は影絵というメディアをうまく使った。影絵では人形と光源との距離を調節することによって、スクリーンに映る人形の大きさを変えることができる。だから、ビマの影はどんどん小さくなり、逆に小さいデワルチの体の影はどんどん大きくなって、デワルチの耳穴の位置に小さくなったビマの影が重ねられることで、ビマがデワルチの耳から体内に入ったことが表現された。これは舞踊劇では到底できないやり方だなあと思う。

というわけで、忘れないうちに書き留めておく。