公演「名人の舞台」

冨岡三智

先月の7月5~6日に”Panggung Maestro”という公演がジャカルタの芸術劇場(Gedung Kesenian Jakarta)であった。私の知人が関わっていたため、公演プログラムをもらい、また7月22日には教育文化省文化総局のインターネットチャンネルIndonesiana TVで配信された時に私も視聴したので(リアルタイム視聴のみ可)、今回はその公演を紹介したい。

この公演はインドネシアの地方の伝統芸能を担ってきた名人(マエストロ)たちに焦点を当て、それらの芸術の保存継承と鑑賞につなげるべく企画されたもので、インドネシアの教育文化調査省、文化総局、映像・音楽・メディア局とスポンサーの企業や財団の協力のもと制作された。来年度以降もシリーズで続けていきたいとのことだが、今回第1回の企画として選ばれたのは3地域:パレンバン(スマトラ島南部)、アチェ(スマトラ島北部)、チレボン(ジャワ島西部)の芸能である。

公演タイトルにある「マエストロ」という語は言うまでもなく外来語で、伝統芸術の名人という意味で使われる。ジャワには名人を示す「ウンプempu」という語があるのだが、ジャワ芸術分野というイメージが強いのだろうか、「マエストロ」の方が広く芸術一般に使われているように感じる。私の記憶では2005~2006年頃からよく耳にするようになったように思う。今回の公演では、伝統芸術を上演するというだけでなく、その上演や指導で長年
功のあった名人に舞台に登場してもらうことが重視されていた。

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プログラム
(1)舞踊「グンディン・スリウィジャヤ」(パレンバン)
(2)音楽「ラパイ・パセ」(アチェ)
(3)舞踊「セウダティ」(アチェ)
(4)影絵(チレボン)
(5)仮面舞踊(チレボン)
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●舞踊「グンディン・スリウィジャヤ」(パレンバン)

この舞踊作品は1943~1944年頃、当時統治していた日本がパレンバン理事州(現・南スマトラ州)への来賓を歓迎する舞踊と歌を作るようにと要請して創られたもので、1945年8月2日にパレンバンの大モスクで初めて公に上演された。インドネシアの独立宣言(この2週間後の8月17日)以前に創られているので、案外古い作品である。2014年には南スマトラ州の舞踊としてインドネシアの無形文化遺産(日本のように「重要無形文化財」と言った方が分かりやすいかもしれない)に指定されている。余談だが、パレンバンといえば2018年にジャカルタと並んでアジア競技大会の開催地になった。

この舞踊作品は9人の女性によって踊られ、最前列の踊り手はキンマの葉などを入れた箱を持って登場し、舞踊の途中で来賓に勧める。この日の公演でも箱を持った踊り手が客席に降りて、映像・音楽・メディア局長にキンマの葉を勧めた。このキンマの葉一式は噛み煙草のような嗜好品で、このセットを準備しておいて客人に勧めるのがこの地域のもてなし文化で~日本の煙草盆のようなものと言える~、それがそのまま舞踊に取り込まれている。

この舞踊は通常はアコーデオン、ビオラ、太鼓、歌の伴奏で上演される。だから、西洋音階である。が、元々はガムラン楽器も使われていたとのことで、本公演では前述のスマトラの音楽とジャワのガムランを混ぜた伴奏になった。

9人の女性が豪華な伝統織物の衣装に金の冠を身に着け、手には付け爪をつけてゆったりと舞うのがいかにももてなしの舞踊だが、振付自体はかなりシンプルである。題名の「スリウィジャヤ」はこの地で7世紀に栄えた王国の名前であり、9人という人数はパレンバンの9つの河川を象徴するという。ジャワであれば9つの穴/チャクラと意味付けられるところだが、河川になぞらえるところが海洋交易で栄えたスリウィジャヤならではである。

この公演で踊るのは現役世代の踊り手だが、この舞踊の第一世代のDelima Tatung女史(93歳)と、その次の世代でなお現役で教えているElly Rudy女史(75歳)がマエストロとして舞台に登場する。もう1人健康上の理由で来れなかったAnna Kumari女史(78歳)の名前もプログラムにはある。Delima女史は車椅子に乗っているが、それでも創作当時を知る生き証人としての重みがある。この登壇した2人の女史たちの誇らかな表情が、州政府の式典で上演される舞踊という性格を雄弁に語っていた気がする。

●ラパイ・パセ、セウダティ(アチェ)

ラパイ・パセは楽器の名前である。ジャワではルバナやトゥルバンと呼ばれている楽器(タンバリン状の片面太鼓)と同種だが、より大型だ。それを吊るし、大勢の男性(今回は約8人)が一斉に素手で叩く。音楽の後半では太鼓に加えてチャルメラのような笛と歌が入ってくる。

セウダティは男性(おっさん)たちが集団で踊る舞踊。当初はmeuratebと呼ばれていたが、この語はスーフィズムの一形態を指すもので、ズィクル(イスラムの唱念)を教えるものだったというが、次第に庶民の間に浸透してこのような形(共同体ダンス的な、という意味だろう)になったとプログラムにある。男性の歌い手3人が舞台に立ち、交互に歌うのに合わせ、男性たち(今回は8人)が独特のステップを踏みながら舞台をぐるぐると歩き回り、スキップし、時に胸や腹をバチッと手で叩き、歌と掛け合うように声を発する。テンポがゆっくりからだんだん速くなっていったかと思うと急に止まったり、また開始したりする。

アチェの舞踊といえばユネスコの無形文化遺産に認定されたサマンが有名だ。サマンは座って踊るのに対し、セウダティは立ったままという点が異なるが、胸や太ももなどを叩きながら踊る点や、空(くう)を裂くように鋭く切迫した感じで歌う点はサマンに似ている。おそらく歌が主導で、それに息を合わせるように踊り手が動いていると思うのだが、歌の緩急や動きが変わるきっかけが私にはよく分からない。互いにどうやって合わせているのだろう。以前、サマンの踊り手から「一糸乱れず踊ることが神との合一に近づくこと」と聞いたことがあるが、スーフィズムにルーツのあるセウダティも同様だろう。

セウダティの踊りでは、指導だけでなく今も現役で踊っている名人のSyekh Azhari氏(73歳)が舞台に上がった。痩身で、速いテンポもひょいひょいと踊る。公演では、おっさんたちがゴザを広げ、スラマタン(食事を共にして安寧を祈る共同体儀礼)を行うシーンから始まる。実際に現地でこの舞踊を行う時はスラマタンを行うのだそうだ。このシーンはさっと切り上げ舞踊に入るのだが、だらだらとせず、見せ方が上手かったなあと感じた。

アチェの音楽や舞踊は、太鼓や笛の音楽の雰囲気、掛声、おっさんが花形になるところなど、日本の祭りを彷彿させる。ラパイ・パセの演奏は和太鼓の集団演奏を聴くようだし、踊るおっさんたちの掛声は、だんじりや山鉾巡行で聞こえてくる声のようだ。音階だとか発声だとかは日本と全然違うのだが、どこか懐かしさを覚える演目だった。

だが、ラパイ・パセも1970年代までは盛んだったものの、スハルト時代はアチェと中央政府の紛争もあってこの芸術活動もかなり廃れていたとプログラムにある。そのことがわざわざプログラムに書かれているのは、それだけ当事者たちにとってその間の抑圧がきつかったのだろうと想像される。盛り返したのはアチェ特別自治法が施行(2006)されて後だという。ちなみにサマンがユネスコの無形文化遺産に認定されたのは2011年である。

●影絵、仮面舞踊(チレボン)

チレボンでは、影絵や仮面舞踊は娯楽以外に各種儀礼のために上演される。伝統的に昼には仮面舞踊が、夜には影絵(ワヤン)が上演され、両者は切っても切れない関係にある。というわけで、この組み合わせでの上演となった。影絵のダラン(語り+人形操者)を務めたSukarta氏(82歳)は父方がダランの家系、母方がチレボンの仮面舞踊家の家系で、本公演でも仮面舞踊の部では演奏もし、最後には自身も踊るなど、オールマイティぶりを発揮していた。

インドネシアの仮面舞踊のルーツはチレボンにあるとされるが、チレボンの中でも地域ごとに様式が異なっていて、本公演ではクレヨ村スタイルのTumus女史(70歳過ぎ)が登場する。ちなみに、プログラムにはMimi Tumusと書かれているが、Mimiというのはインドネシア語のibu(女史)に当たる語。なお、彼女だけ正確な年齢がプログラムに書かれていない。Tumus女史は幼少期より母親から仮面舞踊を学んで活躍し著名だったものの、なかなか支援が得られない状況の中、1990年代には舞踊をやめて物売りやマッサージ師などをして生計を立てるようになっていた。2015年に各方面からの支援の手が伸び、ガムラン楽器や練習指導できる場所が提供され、クレヨ村のスタイルを次の世代に指導できるようになったという。70歳を過ぎて健康を損ね、起き上がれないようになっていたが、この公演のために奮起、車椅子で舞台に登場した。

衣装を着け、車椅子に乗ったまま、上半身だけTumus女史は踊るのだが、甲高い笑い声のような掛け声に合わせて小刻みに動く仮面の表情が雄弁でぞくっとした。その後仮面を取り、横に控えていたひ孫(11歳)がその仮面を受け取って踊りを続ける。その後、2人の9歳の子供たちが一緒に別の仮面舞踊を踊る。この小さな子供たちがクレヨ村の仮面舞踊の新しき後継者たちなのだ。この間、面をつけないTumus女史がずっと後ろで踊っているのだが、まるで彼女がダランとなってこの子供たちを、そして舞台全体を動かしているかのように見えた。実際に舞台を見に行った知人が、この仮面舞踊は鳥肌ものだったと感想を送ってくれたから、彼女の存在感は圧倒的だったのだろう。

ジャワ舞踊やバリ舞踊のように定評のある優美な舞台でなく、地方の地味な芸術と苦労してきた名人たちを取り上げるという点で、主催者達はチケットの売れ行きを大変心配していたが、盛況に終わったようだ。インスタグラムやフェイスブックでも公演前から公演後もずっと積極的なPRが続いている。今後もこの企画が続いてくれたらと期待している。