先月、ジャワの二方位、四方位について書いたけれど、ジョグジャ(=ジョグジャカルタ)市では、北のムラピ山はごく近くに眺めることができ、その火山灰の被害にも遭うくらい近い。また南の海まで市の中心部から15kmくらいしかなく、ムラピ山噴火で噴出した岩が、川を流れて南海岸まで到達するというから、ジョグジャカルタの南北二方位観は生活の中で実感される。けれど、ソロ市(=スラカルタ)では、西のムラピ山も線路(東西に走っている)沿から、はるか遠くに望める程度だし、東のラウ山も見えない(と思う)し、南の海に行くには60km離れたジョグジャの町にまず入らないといけない。北のクレンドワホノの森もスマラン市(ジャワ島北海岸沿いの都市)の手前の方にあるらしいのだが、ワヤン影絵劇に出てくるけど実在しない森だという説明を聞いたことがあるくらいだから、ソロの人々にとって身近な存在ではない。つまり、ソロの四方位観というのはかなり観念的だ。その証拠に、私はソロの王宮以外の人々が四方位観について語るのを聞いたことがないし、観光パンフレットのようなものにも載っていない。
この四方位観について知ったときに私が感じたのが、なんだか閉塞的な世界観だなあということ。南にインド洋が開けていると言う人がいるかもしれないが、ジャワ島の南海岸沿いは波が高く、大きな貿易港(ジャカルタ、スマラン、スラバヤ)はすべてジャワ島北海岸にある。道路が発達しているのも、北海岸側なのだ。南海岸沿いには漁港もあるけれど、悪く言えば北海岸に比べ不毛な土地だと言える。そして、クレンドワホノの森が四方位の北に置かれているということは、その向こうに広がる北海岸には王国の手が届いていないことになる。つまり、オランダ植民地政策によって王家が港市貿易の富から遠ざけられ、内陸部に封じ込まれたという世界観が、この四方位観から読み取れてしまう。
ジャワ島の南海にはジャワの王家(の祖のマタラム王家)を守護する女神ラトゥ・キドゥルが棲んでいるとされるが、彼女の伝説は、ジョグジャの南にあるパラントゥリティス海岸だけにとどまらない。ソロ王家のハディウィジョヨが著した『ブドヨ・クタワン』には、ジャワ島南海岸各地の女神伝説を紹介して、これらはすべてラトゥ・キドゥルのことだと言っているし、それだけでなく、彼女は淡水にも出没する。ソロ郊外にあるタワンマングという滝ではラトゥ・キドゥルが水浴びしたとされるし、ウォノギリ県にあるカヤンガン(巨石が川岸にごろごろしている所)でも、瞑想していたジャワ王家の始祖セノパティとラトゥ・キドゥルがで出会ったという伝説がある。これらの地域に共通するのは険しい岩場であること。こういう場所では、おそらく多くの人が水難事故に遭い、水の女神に引き寄せられたという言説が生まれたに違いない。
ラトゥ・キドゥルという女神像は、ジャワ各地に見られるそういう水の女神像をいろいろと取り込んで、マタラム王家によって造形されたのだろうと、私は思っている。そう思うのは、彼女が古代のジャワ・ヒンズーに由来する女神ではなく、マタラム王国が興った16世紀以降になって初めて登場するからなのだ。当時の東南アジアは港市国家による交易の時代で、マタラム王国も最盛期には北海岸沿いの港市を勢力下において、内陸部の肥沃な農業地帯の生産物を輸出していた。このような時代、内陸平野と北海岸をつなぐ水運は非常に重要だったはずだから、各地の水神信仰を王国の支配下に組み入れ、王国の祭神にしようとしたとしても不思議ではない。とはいえ、もしマタラム王国が北海岸沿いを手中にし続けていたら、マタラムの守護神は北海岸に棲むことになっていただろうという気がする(ラトゥ・キドゥルは南の神という意味なので、女神の名前も変わっていただろう)。女神が南海に棲むという設定になったのは、オランダが文句を言わない海はそこしかなかったから、ではないだろうか…。