「アクト・オブ・キリング」(原題The Act of Killing)は、監督のジョシュア・オッペンハイマーが、スマトラのメダン市で1965年9月30日事件の虐殺に加担した実行者たちを取材し、彼らが過去の殺人を誇らしげに語る理由を知るために、彼らのやり方で虐殺を再現させた過程の記録である。その過程を通じて、主人公の心に変化が生じていく。日本では、2013年の山形国際ドキュメンタリー映画祭に「殺人という行為」という邦題で紹介され、2014年4月12日から全国で順次公開中である。山形での上映時間は159分だったが、いま公開されているのは121分版である。なお、インドネシア国内では”Jagal”(殺し屋の意)の題名で、「配給会社を通じてインドネシア映画検閲局(LSF)の上映許可を得て2012年11月に初公開。国内100以上の都市で上映されたが、治安上の理由から、その多くが招待客対象の小規模なものだった。(2013.9.19じゃかるた新聞)」しかし、1人でも多くのインドネシア人に見てもらえるようにとの製作者の意向により、2013年9月30日からインドネシア国内に限りインターネットで動画の無料ダウンロードができ、自主上映会も開催されている。またYou Tubeでも159分版が無料公開されている。私はYou Tubeで先に見、ネット上の様々な意見をあらかじめチェックしてから、4月19日に大阪で121分版を見た。You Tube版は何度も見直せるのだが、121分版は1回しか見ていないので、記憶違いがあったらご容赦を。
この映画が扱う9月30日事件は、今なお真相の多くは藪の中である。1965年9月30日深夜にスカルノ大統領親衛隊の一部がクーデター未遂事件を起こした。事件を収束させたスハルト陸軍少将は、事件に関与したとして共産党関係者や中華系の人々の集団虐殺を続けた。その数は100〜200万人にも上ったとされ、これら一連の虐殺も含めて9月30日事件と呼ぶ。1966年、スハルトはスカルノから実権を奪う形で第2代大統領となり、東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党を非合法化して壊滅させ、以後30年余り続く反共・親米、軍事独裁、開発独裁の体制を作り上げた。
この映画の主人公で虐殺の実行者の1人、アンワル・コンゴは、当時映画館のダフ屋だったが、実入りの良いアメリカ映画の上映に共産党が口を挟んでくることに不満を持っていた。彼が、アメリカ映画の世界に憧れを持っていたことは、その語りや洒落た服装から明らかだ。彼のように、ダフ屋や地上げ屋など、カタギの商売ではない人たちをプレマン(英語のフリーマンが訛ったもの)と総称するようで、彼はそのような「自由人」であり、かつ、パンチャシラ青年団という300万人を擁する民兵組織に連なっている。今まで、この虐殺の実行者にまで私の想像力は思い至らなかった。漠然と国軍がやったように思っていたが、「当時共産党は合法政党であったから、国軍が前面に出るのではなく、イスラーム勢力やならず者など反共の民間勢力を扇動し、密かに彼らに武器を渡して殺害させた(プログラムp.10、倉沢愛子文)」のだという。映画ではアンワル以外に、当時虐殺側にいた現在の「勝ち組」たちや、パンチャシラ青年団のシーンには撮影当時の副大統領や青年スポーツ副相も登場して、現在でもなお、インドネシア政治がこれらの反社会的勢力と切り離せないことも示している。
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さて、ここから感想。まず、全体について。121分版と159分版を比べて、121分版の方がテーマは素直に伝わりやすいと感じた。例えば、ヘルマン・コト(アンワルの子分的な巨漢)が盛大に泡をたてて歯磨きをしているシーンが159分版の方にはあったが、どういう意図で挟まれたシーンだったのか分からなかった。同様に、おそらくイメージとして伝えたいものはあっただろうが、メッセージ性が直接的ではないシーン、あるいは少し長めのシーンがどれも少しずつ削られて、最終的に40分近い削減になったような感じがする。逆に、121分版でも削ってほしくないと思ったシーンは、森の中でヘルマンが血の滴る肝肉を口にしたり、麻袋にくるまれたアンワルの顔に押し付けようとし、アンワルが吐き気を感じるシーン(159分版の1時間38分40秒辺り)。この映画の最後は、アンワルが虐殺した場所に戻り(映画の冒頭と同じ場所)、そこで嘔吐するシーンで終わる。が、実は159分版の途中でも、彼がこみ上げる吐き気を感じているシーンが何度も登場する。この「肝と吐き気」のシーンは、クライマックス以上に観客にも吐き気が伝染するようなシーンだ。121分版では最後の嘔吐だけがクライマックス的に分かり易く提示されているが、アンワルの心の揺れは159分版の方が丹念に追っているように感じられる。
自分でも意外だったのが、自宅でYou Tube版を見ているときはかなりインドネシア人モードで見ていたのに、映画館で見たら日本人モードになったことだった。たとえば、パンチャシラ青年団の地域リーダーが市場の華僑からみかじめ料を巻き上げるシーンにショックを受けたという映画評が目についたのだが、You Tubeで見ていた時には、全然そんなことを感じなかった。それより私の関心は、みかじめ料として1回いくら支払うのかという点にあった。目を凝らして映画を見ていると、どうも2万ルピアくらい封筒に入れている。普通、こういうお金は封筒に入れないと思うが、プレマンの後ろにカメラがいるのに気づいて、体裁を整えたのかもしれない。しかし、それでは少ないと言われ、ものすごく嫌そうに1万ルピアくらい足していた。この金額を見ると、警察だって変わらないじゃないかという気になる。インドネシアでは、警察はそれほど庶民に信頼されておらず、大通りでバイクの大規模交通検査を度々しては反則料金を取る。私に言わせれば、あれは警察のみかじめ料である。そしてその罰金額もだいたい2〜3万ルピアで映画と変わらない。感覚的には警察は公認ギャング、プレマンは非公認ギャングくらいの差しかない。そう思っていたのに、映画館で見たら、インドネシアではまだこんな勢力が幅を利かせているのか…という感がこみあげてきて、そんな自分の反応に驚いた。周囲に日本人が多いと、日本人感覚に戻るのかもしれない。そして、インドネシアでこの映画を見ている人たちも、私の最初の反応と同様にこのシーンに何も感じず、かつ外人がショックを受けていることにも気づかないかもしれない、と思う。
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ここから映画評の本論に入りたいところだが、ひとまず今月はここで時間切れである。この映画を見て、私がひっかかった点がいくつかあり、それについて、フェイスブックのインドネシア語版サイトを通じて製作者に質問を送った(4月8日)のだが、まだ返事が来ていない。回答はジョシュア監督自身でも、インドネシアにいる共同監督からでも良いと言ってある。その点についても、来月進展があれば…と思う。