今回の調査でジャワ島中部の古都ジョグジャカルタ(通称ジョグジャ)に来て、通算滞在日数がそろそろ3カ月になる。過去6年あまり、同じ中部ジャワのもう一方の古都、スラカルタ(通称ソロ)に留学していたのだが、その時にはジョグジャには日帰りで公演を見に来るくらいのことで、ほとんどジョグジャの町については知らなかった。ジョグジャでの勝手も分からず、また食べ物の味もちょっと違っていて、最初の2カ月間はちょっとソロ恋しい気持ちが強かった。やっとジョグジャにもなじめてきたかなあと最近思っている。
それで最近感じているのが、意外にソロとジョグジャは違うということ。といっても、音楽や舞踊の様式についての話ではない。もっと都市の性格が違うのだ。両方ともマタラム王朝が分裂して成立した都市だから、都市としての歴史的な背景はあまり変わらないし、距離も60kmしか離れていない。というわけで、今月は私が感じているソロとジョグジャの違いを書いてみる。
●川
実は3月号に書いた「噴火後のムラピ山からカリ・チョデまで-その1-」でも触れているのだが(いつものごとく-その2-がない…)、ジョグジャでは南北の軸が非常に強い。北にムラピ山、南にはインド洋があって、ムラピ山を水源とする川が何本も海にそそいでいる。だから、市内を東西に縦断すると、何本か川を渡ることになるのだが、それがなぜか、自分にとっては新鮮な感じがする。しかも、橋では若い人たち(アベックに限らない)が何人もバイクを止めて川を見ていたりする。夜でもそうだ。ちょっと休憩して川を見るという行為が、ここジョグジャでは暮らしの中にとけこんでいる。
ソロでも川がないことはなくて、町のど真ん中を通っているのもあるが――市役所からパサール・グデ(大市場)の辺りを通るペペ川とか――、日常風景にとけこんでいるという感じではない。ソロを代表するソロ川(ブンガワン・ソロ)は水量も多く川幅も広く、都市ソロの周囲を巡っていて、隣接県との境界を成している。ブンガワン・ソロというのは、都市を貫通する川ではない。ソロの人たちがソロ川と言ったら、たいていはジュルッ公園がある所を指すのだが、そこは、もうソロの端っこである。だからソロの芸大でプンドポを建てて、ちょっと方位に問題があったということでルワタン(魔除けのワヤン)を行ったときに、それに使ったワヤン人形を流したのもここだし、1966年の洪水で、マンクヌガラン王家が他王家から拝領したものの水に浸かってだめになった衣装一式などを丁重にお祓いして流したのも、ここだった。つまり、あの世とこの世(ソロ)との間にあるのがブンガワン・ソロなのである。ソロ川は「ブンガワン・ソロ」の名曲で人口に膾炙していて、人の運命を哲学的に感じさせる川ではあっても、生活を感じさせる川ではないなあという気がする。
それに対してジョグジャのチョデ川というのは、ジョグジャ宮廷の横をかすめるようにして、町のど真ん中を南北に貫通している。川沿いには周辺地域から流入してきた人たちによる不法占拠やら川の汚染問題やらの都市問題が起こってきた地域だった。ロモ・マングンという建築家であり神父である人が先駆者となり、今では多くのNGO団体がその状態を改善すべく、動いている。そんな風に、川沿いは都市住民の生活の場になっている。
ソロでも、前に述べたペペ川沿い(パサール・グデ裏の辺り)は、ほんとうは華人の貧民街なのだが、スハルト政権期に政治的に微妙な問題だった華人系の地域ということもあってか、ジョグジャのように都市問題の表舞台(っていうのも変な表現…)にはなってこなかった。つまり、都市の水辺地域というのは見えない地域だったのだ。
●インターナショナル/ジャワ
ジョグジャに来て素朴にも感じたのが、わー、ジャワ人以外が多い、ということだった。今はガジャ・マダ大学のゲストハウスに住んでいるが、大学の内外を問わず、見るからにパプアとかアンボンとか、いわゆる外島(ジャワ以外の島)出身者が多く目につくし、それに外人留学生も多い。この近くにもリアウ出身者やバリ出身者が集まる建物がある。この状況と比べると、ソロは純ジャワ率が高い。ジョグジャの人がそう言うのである。ソロに行くと「ジャワだ〜」という気がする、のだそうだ。そんな風にジョグジャの人に思われているとは、ソロにいる時には全然気づかなかった。ソロはたぶんジョグジャに比べてチナ(華人)率が結構高いと思うのだが、そのチナ系の人たちの顔もジャワ人の顔に馴染んで見えてしまい、外島出身者のように「よそ者」には見えないのが不思議だ。
インドネシア各地から人が来るためか、ジョグジャでは西洋芸術など外来文化の摂取が盛んだ。これは今に始まったことではなく、インドネシア独立以前からである。たとえばソロでは1950年に全国で初めての地域伝統音楽の学校であるコンセルバトリ・カラウィタン(KOKAR,現・国立芸術高校)が設立されているが、ジョグジャでは1950年代初めに西洋音楽を教える学校、ASMI(現・芸術大学に統合)、西洋美術を教える学校、ASRI(現・芸術大学に統合)が設立されている。いまでもジョグジャはジャカルタ、バンドンと並んで現代美術の中心だし、ジャカルタの交響楽団の団員の多くはジョグジャの芸大の卒業生だ。
そんなジョグジャだが、ジョグジャは独立後の現在もいまだに、ジョグジャカルタ宮廷のスルタン(王)が終身知事を、分家のパク・アラム候が終身副知事を務める特別州である。これは先代のスルタンがインドネシア独立に当たって多大な貢献をしたことによる措置だが、昨年になって大統領が独立国家内における旧体制だと批判するようなコメントを不用意にしたので、ジョグジャ市民は過敏に反応し、2月にあった王宮のイスラム行事なんかでも、大統領の発言を批判する政治ビラなんかが配られていた。一見インターナショナルな都市に見えながら、代々ジョグジャに住んできた人たちのマタラム・アイデンティティには強固なものがある。
ある新聞記者の話だが、外来の者に対してオープンなのはソロの方だという。彼女はジョグジャ支局勤務時代にジョグジャ州では居住許可が下りず、中部ジャワ州のスコハルジョ県で許可を取ったのだという。スコハルジョはかつてのソロ王侯領であり、つまりソロ文化圏だ。こっちは簡単に許可が下りたという。ジョグジャはコミュニティの力が強くて新参者が入りにくい、だからテロリストはソロに隠れるのだ、とも彼女は言う。そういえば、バリ島テロ事件以降のテロ事件は、みな、テロリストはソロに潜んでいる。
この話は腑に落ちる。伝統的なガムラン音楽や舞踊の分野でも新しいことに貪欲なのはソロの方だ。ジョグジャやスンダなどの要素をソロ様式の中に取り込んでしまうので、ソロ様式と一言でいってもものすごく幅がある。ジョグジャの方が、ジョグジャ宮廷の古い衣装のスタイル、古い振付、演出などを強固に守ろうとするのだ。それは、逆に西洋や外島の影響がどんどん入ってくるからかもしれない。だからこそ、ことさらマタラムを強調する。さらに王家として、ソロとジョグジャは対等だとはいっても、ジョグジャの方が文化的には分家になる。分裂当時のマタラム王朝の首都、王の称号、さらに王位継承を正統化する舞踊「ブドヨ・クタワン」を継承したのはソロ王家の方だからだ。そして分家の方が、本家よりもことさら正統性を強調し、様式美を作り上げたがるというのも、インドネシアに限らず日本でもありがちなことだ。
ただ、「伝統の現代化」においてソロは強みを発揮するものの、インターナショナル・スタンダードに合ったコンテンポラリという点では、ジョグジャの方が強みがあるように思う。