国籍と帰属先

冨岡三智

10/31の日経新聞に藤田嗣治の肉声テープが見つかったという記事が出ている。日本を捨てた藤田が民謡や浪花節を好きだと語り、「藤田先生は日本嫌いで縁を切ったなどと言われているが、本当は日本が大好き」だとある。いつも思うのだが、日本では、外国籍を取得する=日本を捨てると思われがちだ。青色LEDの発明開発でノーベル賞を取った中村修二が米国籍を取っていることが知れた時も、中村は日本を捨てたということがあちこちで書かれた。

けれど、国籍を選び得る状況に置かれたとき、それ以前の状況とその後の展開(その後に得られる権利)を考えて、より有利な国籍を取得したいと考えることは人間として普通なように思う。それは日本国籍を捨てるというより、別の国籍を選ぶという行為なのだ。もちろん、戦後「戦犯」扱いされた藤田には日本国籍を捨てたと言える部分はあっただろうけれど、それは日本に生まれて体得してきた日本の文化まで否定するということと同じではない。それなのに、藤田は日本人だったアイデンティティまで全部否定したように言われてしまう。

「国籍上の日本人である」ことと、「日本人としてのアイデンティティを持っている」ことは別問題なのだ。世界的に見れば、民族と国籍と在住国と本人のアイデンティティが違うという例も多い。島国日本ではこれらが全部一致するものだという感覚が今でも根強くあるように思う。インドネシア人にどちらの出身?と聞くと、「えーと、父は○○民族で母は××民族だけど、両親は共にジャカルタに生まれ育っていて、私は今は日本で仕事をしている」というような返答を聞くこともある。その人にとっては、結局どれが帰属先が分からないようだ。