ジャワ舞踊の美・境地を表す語

冨岡三智

たとえば能ならば「幽玄」、利休のお茶なら「わび」というように、芸道ではそれぞれ目指すべき理想の境地が、簡潔な語で言い表される。では、ジャワ舞踊で追求すべき境地は、どういう単語で表されるのだろう。ここではいくつか挙げてみたが、これらはジャワ舞踊だけではなく、ジャワ人の行動様式やジャワ文化一般を語る上でも重視な単語だと言える。

●バニュ・ミリ(banyu mili)
ジャワ語でバニュは水、ミリは流れるという意味で、水が流れるような様をいう。ジャワ舞踊の動きの流れるような滑らかさ、しなやかさを形容するのに使われる語。

●アルス(alus)
アルスはジャワ語で、インドネシア語ではハルス(halus)という。アルスとは自己抑制された状態で、物腰が柔らかく優美にふるまうさま。反対語はカサール(kasar)で、自己抑制ができず、粗野にふるまうさまを言う。ラーマーヤナ物語でたとえると、ラーマ王子がアルスで、ラウォノがカサールなキャラクターである。染谷臣道の著書で「アルースとカサール ―現代ジャワ文明の構造と動態」というのがあるように、アルスとカサールはジャワ文化を理解する上で最も基本的な概念だと言える。

●スメディ(semedi)
スメディとは瞑想に入って精神集中した状態のこと。サンスクリット語のサマディsamadhiからきている。ちなみにサマディを音訳すると三昧(ざんまい)になる。本文では三番目に挙げたけれど、「目指す境地」を表す語としてはスメディが最もふさわしいように思う。舞踊の実践は一種の瞑想のようなものだと考えられている。

●スメレー(semeleh)
スメレーはおだやかで落ち着いたという意味。ジャワ舞踊の良し悪しを評価する場合に、最もよく使われる語だと言える。スメディも同じような意味で使われているように感じるが、辞書で見ると、スメレーには「神を信じ、神に身をゆだねた」と言うニュアンスがあるようだ。スメディという語には、瞑想修行によって到達してゆく過程が意識され、その過程を経て得た安寧な心の状態がスメレーなのかも、と思ったりする。

●スピ(sepi)
スピはインドネシア語にもあり、人気(ひとけ)がない、寂しいという意味。これを舞踊の境地を表す語として使う人は少ないかも知れないが、私の師はスメレーと並んでこの語を使った。訳語としては「静寂」が一番ぴったりくるような気がする。喜怒哀楽の感情や我執を超越した無の境地、寂々たる境地なのかと思っている。

●ウィンギット(wingit)
これは古代ジャワ語(カウィ語)の語彙で、あまりなじみがないかもしれない。これも舞踊の境地を表す語として使われることは、あまりないように思う。辞書では「寂しい(sedih)、つらい(susah)」と意味が説明されているけれど、私が師たちと語り合った中においては、この語は「超自然的なものに対する恐れ、畏れ」というような意味で使われる。たとえば「ブドヨ・クタワン」という即位記念日の時にしか上演されない宮廷舞踊は、精霊を統括する超自然界の女神と王の結婚というテーマを描いていると同時に、王国に災厄がもたらされないようにという意味をこめて上演される。そのような、目に見えない世界からもたらされるものに対する畏れの感情がウィンギットなのだ。

私は、宮廷舞踊のうち男性舞踊はスメディな境地を求めようとし、女性舞踊はウィンギットなものを表現しているように思う。それは宮廷における男性と女性の舞踊家の本質的な立場の違いに由来する。もともと宮廷の儀礼舞踊としてあったのは女性舞踊の方で、儀礼の供物、魔除けとしての性格が強い。宮廷女性舞踊に見られる、息の長いフレーズ、高音部から低音部へと上昇下降を繰り返すこと、古い曲に見られる転調、クマナという楽器の単調なリズム…これらトランス状態を引き起こしそうな要素もまた、ウィンギットなものを表現していると私は思っている。

●マヌンガリン・カウロ・グスティ(manunggaling kawula gusti)
カウロは僕(しもべ)/臣下、グスティは神/王、マヌンガリンは合一という意味。本来は、神と神の僕たる自分との合一という宗教的な意味だったのが、ジャワ社会では次第に、神と同一視される王と家臣の間の理想的な関係を言うようになった。ジャワ舞踊に関して言われる場合は、もちろん本来の「神との合一」という意味である。この言葉、あるいはこの言葉がベースにある「ロソ・トゥンガルrasa tunggal」などは、舞踊作品の題名などで意外によく使われている。ただその分だけなんだかキャンペーン用語のようで、観念的で実感性に乏しくなっている気もする。