振付家名のクレジット(3)

冨岡三智

 宮廷舞踊家クスモケソウォ(1909〜1972)は、「スラカルタ宮廷の舞踊」を「スラカルタ地域の舞踊」へと広めた。宮廷舞踊家はそれまで匿名の存在だったが、宮廷外で舞踊教育をリードするようになったために、名前を残すことになった。

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その次の世代でジャワ舞踊を代表する振付家といえば、ガリマン氏(1919〜1998)とマリディ氏(1934〜)である。この2人は「スラカルタ地域の舞踊」をさらに発展させ、古典となる作品を作り上げた。2人の作品を見ていると、宮廷舞踊の儀礼性を残しながらも、より純粋に芸術性を追求している。振付に個人の個性が見てとれる。そういう意味で2人は近代的な舞踊家・振付家だと言えるだろう。2人の作品は現在の芸術高校や芸術大学で教える舞踊の中心的なレパートリーになっており、その曲の多くはカセットで市販されている。

市販カセットには、2人の曲の他にASKI・PKJT、あるいはPKJT・ASKIとクレジットされているものがある。PKJTは中部ジャワ芸術センタープロジェクト、あるいは中部ジャワ芸術発展プロジェクトのことであり、ASKIはアカデミー(1964年設立、現在の芸術大学)のことである。PKJTはインドネシア政府の開発プロジェクトの1つで、1969〜1981年に実施された。ゲンドン・フマルダニ(1923〜1983)がリーダーである。またフマルダニは1971年からアカデミーの学術部門長、1975年から亡くなるまで学長を務めた。トップが同じであるため、両機関は一体化して芸術活動を行っていた面もあり、そのためPKJT・ASKIと並び称される。PKJTで手がけた古い舞踊のリメークや創作のレパートリーは芸術大学のカリキュラムに定着している。ガリマンもマリディもPKJTやASKIで指導していたが、いわゆるPKJT・ASKI版を手がけたのは、2人よりも若い世代である。

PKJT・ASKIで作られた作品の場合、カセットにしろ公演の場合にしろ、その振付家名はあまりクレジットされない。芸術大学の内部の人ならば誰が中心となってその振付を手がけたのか知っているが、外部の人間には分からない。そのことに私は以前からやや違和感を抱いていた。ガリマンやマリディという著名な振付家が活躍する時代になったのに、なぜPKJT・ASKIでは振付家個人の名前をクレジットしないのだろうか、まるで宮廷舞踊家が匿名であった時代に逆行したみたいだと、最初私には感じられた。

その理由の1つとして、グループ振付が多かったということが挙げられる。フマルダニの考えでは、振付は分業すべきであったようである。たとえば2人で踊る舞踊ならば、1人ずつがそれぞれのパートを振り付ける。これには、PKJTが地方で行われた国のプロジェクトだということも関係しているかも知れない。プロジェクトとしては中部ジャワ州の多くの人々が制作にコミットし、成果を分かち合うほうが成功だと言えるからだ。これは共同体的な発想でもある。とはいえ、同じ国のプロジェクトだったラーマーヤナ・バレエでは総合振付家や振付アシスタントの名前はクレジットされている。それは公演主体のプロジェクトであったからかも知れないし、また年齢的にも地位としても突出した人がいたからこそ可能だったのかも知れない。

それはともかく、PKJT・ASKIが振付家名をクレジットしない理由として他に考えるのは、フマルダニの指導の影響力が大きかったからではないかということだ。PKJT・ASKI版ではグループで振り付けていても、フマルダニが手を入れて変えた部分が多いと多くの人が語っている。それに明らかにフマルダニが著作物で主張している考えが振付に実現されている。

(話がそれるが、そのフマルダニの主張とは西洋舞踊に影響を受けた額縁舞台用の振付、全員の一糸乱れぬ揃った動き、速い動き、などだ。フマルダニは1960〜1963年までイギリスとアメリカに留学しており、インドネシア人の中でも早い時期に西洋舞踊を鑑賞し且つ学んでいる。一方、現在においてもスラカルタの芸術高校、芸術大学にはバレエやモダンダンスの実技はない。)

また練習や振付の後には毎回フマルダニの講評と全員でのディスカッションがあったから、実質的な総合振付家はフマルダニだと言っても良いくらいのものではなかったか、そしてフマルダニ自身にそういう自覚があったために、PKJT・ASKIでは実際に振付に当たった人をクローズアップしなかったのではないか、とも私には思えるのだ。それではなぜフマルダニは自分の名前を出さないのかということにもなろうが、それはやはりプロジェクトの長としてプロジェクト全体の成果を強調したかったのだろうという気がする。

フマルダニは、皆で寝食も芸術活動も共にする共同体を作りあげることを理想としていた、それは1970年代も終わりになってくると半ば実現していた、と私には思われる。そしてそれは欧米の寄宿制の舞踊学校を備えたバレエ団のようなものを念頭に置いていたのではないかという気がする。(しかしまたそれはかつての宮廷の舞踊家のあり方にも共通する。)事実、PKJTの拠点でありASKIのキャンパスでもあったサソノムルヨ(宮廷敷地内にあるコンプレックス)では、練習スペースとなる中心のプンドポ(ジャワの伝統的な儀礼空間)を囲む建物群が寮になっていて、多くの学生や教官、そしてフマルダニ自身も住んでいた。サソノムルヨでは5:00にはフマルダニが率先してクントゥンガン(スリット・ドラム)を叩いて皆を起こし、アカデミーの授業前から舞踊練習が行われた。そしてアカデミーの授業が終わると、また夜中まで各種練習が続く。その間フマルダニはつきあって指導し、細かくコメントを与え、ディスカッションをする……。(ちなみに1時限目の授業は7:30に始まる。しかし舞踊訓練の前の4:00にスンダ・ガムランの練習がある。また一番空いている時間帯だからということで、アカデミーの音楽試験公演もしばしば4:00過ぎから行われていたらしい。)

脱線ばかりになってしまったけれど、いずれの理由にしろ、誰か1人を振付家としてクローズアップするということをしなかったのは、フマルダニがPKJT・ASKIを共同体的なものとして指導したためだと言えるだろう。しかしPKJT・ASKIの時代=1970年代、の終わり頃から振付家が脚光を浴び始める。つまり1978年からインドネシア若手振付家フェスティバルというものが始まるのだ。(1986年でいったん終了し、1991年から現在のインドネシア・ダンス・フェスティバルに引き継がれる。)このフェスティバルは現代舞踊をインドネシアに定着させようとジャカルタで始まったもので、初めて踊り手よりも振付家に焦点を当てている。

(続く)