すとんと落ちて、腑に落ちない

くぼたのぞみ

ひとつ仕事が終わると、すとんと落ちるようになった。1500枚の訳稿を送ったあととか、それが本になったときとか、心にかかっていたイベントが終わったあとなど、すとんと落ちるのだ。気力が、体力が、底のような場所へ。そこは茫漠として霞んでいる。

 ひと区切りついた翌朝は、ひさびさにぐっすり眠って開けた朝でもあり、終わった仕事の余韻がふんだんに残っていて、さて、次はなにをしようか、とそれまでの勢いであれこれ考える。むかし習った「慣性の法則」だ。機関車は急には止まらない──自動車ではなく「機関車」というところで、「むかし」のお里が知れるけど。
 午前中は心も軽くPCを立ちあげて作業をする。昼ご飯のあとは、ちょいと街まで、とショッピングなどもやってのける。ところが陽が少し斜めになって、かわたれどきへ向かうころ、じわじわと気配が忍びよる。

 となると、ふうせん気分はすっかりしぼんで、まだ残っていたように見えたものの水位がどんどん下がっていく。なにをするのも億劫なのだ。これが春のスプリーン、憂鬱か、憂愁か? 目の前できらきらしていた「次の仕事」は、魔法が解けたように色あせる、いや、色あせて見えてしまう。これが終わったら読もう、と積んであった本の山も、時間のないときは魔性のオーラを発していたのに、はらりと開いても目は文字をなぞるだけで、心にとどかない。
 十代の試験勉強中に、ああ、もうヤダヤダ、「この世のほかならどこへでも」気分で、俄然面白そうに見えてのめり込んだ本が、試験が終わった途端にちらとも読む気が起きなくなったときのよう。本たちが急に知らんぷりをする。腕の力が抜ける。指まで、たらたらとキーを打ち間違える。晩ご飯を食べるころには、「あああ、もうなにを食べても美味しくない」状態になる。

 こういうときは、ひたすら窓から遠くをながめ、ぼんやり近くを見る。じっと手を見るイシカワさんのように、湯を飲む。そしてエネルギーが満ちてくるのを待つ。待つことが苦手な人間には、ここいちばんの難行である。難行だけれど、急いで次へ移っても、結果が思わしくないことはわかっているのだ。 
 だから、じっと手を見て、満ちてくるのを待つ。湯を飲めば、やわらかいはずの湯気は熱く、舌を焼くばかりだが、それもまた遠くのことと気にとめず、ぼんやりする。ぼんやりするのだ。そして突然、何かが通り過ぎて、こんな文章を書いている自分を発見する。

 すとんと落ちても、けっして腑には落ちない、あれからもうすぐ7年。じわりと待つ春の空は、今日も霞んでいる。