「ライカの帰還」騒動記 その6

船山理

私はこの話を1話完結のカタチで書いていて、全12話で終わる構成を考えていた。1話完結にするのは、掲載予定の雑誌が「カメラマン」という月刊誌であることがその理由だ。月刊誌の場合、ストーリーの最後に「引き」をつくって「続きもの」にしてしまうと、読者は1カ月先まで待たされることになり、同時に前作の展開を1カ月という長い時間、覚えていてもらわねばならない。いくら何でもこれは不遜だ。

また、この話は1話ごとのエピソードがそれほど単純ではなく、じっくり読んでもらいたいことから、ページ数を「折り」に都合のよい16でなく、20とすることにする。これは起・承・転・結を4ページごとにするより、5ページごとの展開にして「読み応え」を深めようという方策だ。このノウハウは長年にわたって小学館が築いてきたものだけど、今回はこれを採用させてもらうことにした。

しかし雑誌をつくる編集現場にとっては、ポンと放り込める16ページではなく、20ページを台割に織り込むことは容易ではない。ポンと放り込めるということは、間に合わないとなったら「折り」ごとポンと外せるということでもある。前後のページに干渉しない分、リスクが大幅に減るというわけだ。20とした場合は、4ページ分が他の「折り」に食い込むことになるから、どたん場の修正が至難のワザになる。

20ページに固定された連載企画を「外部」につくらせるにあたっては、よほど掲載誌側の理解と協力がないと難しい。当然、編集部からはクレームがつくだろうが、これは根気よく説得して了解を得るしかないのだ。私は4話分の原作を月刊カメラマンの編集スタッフ全員分コピーし、以前ホリデーオート誌に掲載した吉原さんのF1コミックを添えて、カメラマン誌の編集会議に臨んだ。いよいよプレゼンの開始である。

こんな話で、この人の絵で展開したいと思います。ご意見を伺わせて下さい。ここでダメを出されたら、すべてが無に帰する正念場なのだけれど、なぜだか私には何の不安もなかった。やっとたどり着いた案件が、ここで座礁するわけがない。考えてみれば何の根拠もないのだが、自信たっぷりで促す私の前で、スタッフは静まり返っている。見ると全員が原作のコピーを読むことに没頭していた。

やがてスタッフたちはポツポツと顔を上げる。目はキラキラしていた。「いいじゃないですか!」「すごい話ですね! これ実話ですか?」「これは楽しみです! いつから始められますか?」この声に私はこれまでのすべてに感謝しつつ、頭を下げた。気にかかるのは編集長の一杉さんだけが、渋い顔を見せていることだ。年配の彼はコミックに親しんできた世代ではなく、社長の林さんとも折り合いはよくないと聞く。

このプロジェクトが社長のキモ入りであることも、あまり面白くは思っていなかったのだろう。しかし雑誌は編集長のものである以上、彼がOKを出さなければ話は始まらないのだ。一杉さん、いかがですか? 私は念を押しにかかった。スタッフ全員が賛同している姿を見れば、安易に反対意見を出すわけにも行かないのだろうが、彼なりに厳しく注文をつける。これは主に進行に関してのことだった。

「20ページというボリュームは、けっして軽いものじゃねぇぞ。もし作業が遅れて、入稿に支障が出た場合はどうする?」これは編集長として当然の懸念だが、進行畑ひとすじでやってきた一杉さんは、そう言って私を睨みつけた。だけどこれは私にとって想定内の質問だ。作家さんも人間です。病気になることも、事故が起こることもありますから、編集作業には作家さんの健康ケアも含まれます。

さらにホリデーオート誌の「I CAN C!」連載の経験も踏まえて、余裕をもって3話分、つまり3カ月分のストックができてから連載を開始させたいと思っています。もちろん、これはムリだと判断したときには、できる限り早い段階でお知らせし、進行の妨げにならないよう努めます。一杉さんは、まだ私を睨みつけている。私はニッコリ笑って、この段階ではそうとしか言いようがないじゃないですか、と言った。

編集会議の席に、やっと笑いが戻った。一杉さんも苦笑いだ。「よし、船山がそこまで言うなら、この件は任せた。月刊カメラマンはコミック掲載を受け入れる。しっかり『いいもの』をつくってくれ」スッタフたちは互いの顔を見合わせて微笑んでいる。私にサムアップを送ってくれる人もいた。一杉さんは号令を下す。「さぁ、次号の編集会議を続けるぞ!」プレゼンは、どうやら成功である。

私は自分の席に戻ると、吉原さんに掲載誌の承諾が得られたこと、さっそく作業にかかって下さいと連絡を入れた。ついに戦闘開始である。当初、私が想定した石川サブロウさんではなく、彼の絵と構成でこの話が綴られる。どんな感じになるのだろう。思いはぐるぐると頭の中を駆け巡るが、サイは振られたのだ。しかし、私の漠然とした不安をヨソに、現実は私の思いをはるかに超えて進行して行った。

コミックの制作は、まず「ネーム切り」という作業から始まる。「コマ割り」とも呼ばれるこの作業は、決められたページ数の中でストーリーをどう展開させて行くかという、いわば設計図とも言えるものだ。作家さんにとってこの作業は、実際にペンを入れることより難度が高いと言われ、およそ7割の時間がこれに費やされる。ネームが完成すると編集はこれをチェックし、作品の仕上がりを見通すことになる。

吉原さんには、さっそくこのネーム作業にかかってもらったのだけれど、彼から「上がりましたよ!」という連絡をもらい、このネームを見て私は愕然とした。本来ネームというのはわら半紙などに割られたコマや人物の配置、セリフの入る吹き出しなどが示される簡素なもので、人物などは顔を円で表わし、向きを示すのは中心線と両目の位置を示す線を十文字で描かくことが普通だ。ところが吉原さんのネームは違った。

鉛筆ではあるが、原稿用紙上に細かく描写しているだけでなく、人物などは表情までが描き込まれている。このまま印刷したくなるほどだ。背景にしても然りで、あとはペン入れとトーン貼りを待つばかりという仕上がりである。これは正直、困った。設計図であるはずのネームが、ここまで「完成」に近づけられては編集がサジェッションを入れる余地がない。もちろんチェックが不要なほどであれば、問題はないのだけれど…。

気を取り直して、じっくり読み込んでみる。コマ割りはストーリーの流れやスピード、余韻を表わすばかりでなく、心情をも表現する。人物の配置や場面の「寄り」「引き」は映画で言うところのカメラワークであり、人物の動きを含めた「演出」や「脚色」、さらに「背景」や「コスチューム」などまで、作家さんはほぼひとりでこれを考え、指先ひとつでつくり出して行くのだ。実に孤高で孤独な作業である。

コマ割りに2、3引っかかるところがあったが、このネーム切りは見事と言うしかなかった。やはりこの人は只者ではないのだ。引っかかったところを、遠慮がちに指摘すると、吉原さんは腕を組み、じっと考えている。やがて「なるほど!」と言ったと思うと消しゴムを取り出し、私の目の前で細かく描かれたコマをゴシゴシとこすり出したではないか。ちょっと待ったぁ! である。私は気が弱いのだ。

私はコピーをとらせてもらい、編集部に持ち帰ってさらに読み込ませてほしいと言った。帰りの電車の中で私は笑みを止めることはできなかった。すごいことが始まっている。私の頭の中から石川サブロウさんの絵は完全に消失していた。吉原さんとの出会いは必然だったのだ。後日カメラマン編集部に報告したとき、スタッフから「ところでこの話、タイトルは何ですか?」と訊かれた。しまった。まだ、それは考えていなかった。