境界

璃葉

地元にある老舗の劇場が閉館になったのは、ずいぶん前のことだ。あのマニアックな映画しか上映しない小さな劇場が、いつまでも残っているものだと思い込んでいた私はその知らせを聞いたとき、本当にショックを受けた。新聞によると、都市開発とシネコン(複合映画館)台頭のため閉館、という理由らしい。生まれた街に対してのがっかり度がまたも更新された。

あの劇場に足繁く通っていたわけではないが、子供のころ、私が映画というものに夢中になりはじめたころ、初めて父に連れて行かれたミニシアターだった。ビッグ・バジェット系の映画ばかり観ている私に何かを思ったのだろう。今まで観たことのない、美しく、それでいてずっしりと重いスペイン映画は、観終わって出入り口から続く階段を降りた後も、しばらく体に残像がまとわりついていた。この生々しさとざらざらとした質感は何だろう、と思いながら。

去年の春先…このぐらいの時期だっただろうか。早稲田松竹のレイトショーを観に行った。映画の内容は簡単には理解できないが、静かで心地の良いシーンとメタファーの連続で、観終わった後はしばらく惚けていた。
早稲田松竹はレトロな建物だ。券売機でチケットを買い、開け放たれた扉をくぐればすぐシアターに入っていけるようになっている。もちろん部屋はひとつだけ。上映が終わると客はぞろぞろと出口に進んでいき、何の“境界”もなく、すぐに外の世界に出ていける。同じ映画を観た人たちが、街の中に散ってゆく。

あのとき私は通りに出てからも、しばらく映画と現実のはざまにいた。時間がゆるやかに流れて、それは映画の中そのものだった。街のカフェやレストランが、キラキラして見えたのだ。結局その感覚は家に帰るまで続いた。
あの映画を、もしシネコンで観ていたらと想像する。大きなモールやエスカレーターを介して、全く違う映画を観る・観た人たちとごちゃ混ぜになりながら外に出ていたら、この余韻は残っていただろうか?複合映画館と小さな映画館は全くの別物で、比べるものではない。シネコンが台頭しても、ミニシアターはなくなるべきではないのだ。双方それぞれの楽しさがある、ということをまざまざと感じることができた夜だった。