秋が始まったばかり、たいへん大きな台風が東京から去っていったころ。デンマークの松葉杖の輸入代理店を開くとともに、福祉について追求しているMさん、建築家のSさんと3人で老舗の釜飯屋で楽しく飲んだ日があった。ふたりとも本当におもしろく、話が尽きない。少し余白が空いたところで、大事なもの(物質)はなにかと聞いてみた。10月号に書いた、わたしの好奇心によるへんてこな質問だ。
突然振ったにも関わらず、ふたりとも真剣に考えてくれる。お酒を飲みながら頭を捻りしばらく考えて、その間色々な方向に話が飛び、話題は消えたかのように思えた。
「スニーカーかもしれない…」とSさんが突然呟いた。
会話というものはつくづくおもしろい。鎮火したかと思っているとじつは種火が残っていて、ふたたび燃え上がる。
Sさんいわく、自分の体を支えているものはお気に入りの靴(スニーカー)であり、裸足になると軸がぶれてしまう。それを履くことによって姿勢をちょうどよく保てて、一本の芯が通るらしいのだ。とあるブランドのとあるスニーカーがSさんにとってとても履き心地がよく、もし自分が棺に入るときがきたら、そのスニーカーを履かせてもらってあの世に行きたい、それぐらい大事らしい。
自分の体の軸をしっかり支えてくれるお気に入りの靴を履いていたら、三途の川もちゃんと渡れて、無事に浄土とやらに辿り着けそうじゃない?と、なんともお茶目に語る。
体というものについて薄ぼんやりと考えながら電車にのる。自分の体の状態を把握するのは案外難しいものだ。自分は靴を履いているときよりも裸足の方が好きだと思っていたけれど、考えてみればそれは柔らかい土の上や板張りの床、原っぱ、澄んだ水の中に入るときぐらいだけだ。靴というものについて深く考えたことって、そういえばなかったかもしれない。靴を履いての心地よさ、感じてみたいかもしれない。
全く関係ないが、たのしく酔っ払った体に電車の揺れは心地よい。
後日、小雨の降る夕暮れどき。何かの買い物のついでに、どうにも靴のことが頭から離れず、とうとうほんの少しいい靴を買ってしまった。ソールがきちんと自分の足裏に馴染んでいく革靴だ。もちろんご機嫌になる。浄土ではなくこの娑婆世界で、よりよい方向へ連れてってくれると信じながら大事に履いていくことにしよう。