134 混メール 長明さん、啄木さん

藤井貞和

若し、ありく事あれば、みずからあゆむ。謂う心は、両足を地面(じべた)に喰っ付けていて歌う詩という事である。くるしといへども、馬くら、牛車と、心をなやますにはしかず。実人生となんらの間隔なき心持をもって歌う詩という事である。今、一身をわかちて二の用をなす。珍味ないし御馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物の如く、手のやつこ、足ののりもの、然く我々に「必要」な詩という事である。よくわが心にかなへり。――こういう事は詩を既定の或る地位から引下ろすことかも知れないが、身心のくるしみをしれれば、私からいえば我々の生活に有っても無くても何の増減もなかった詩を、くるしむ時はやすめつ、まめなればつかふ。必要な物の一つにするゆえんである。

(ははは、方丈記と「食うべき詩」とを一つにしちゃいました。ごめん。)