「詩――大和言葉でいえば『うた』。『うた』の語源は『拍合(うちあ)ふ』
→『うたふ』。そういうことじゃいけなかったの? きみは、そうだよね、
折口説を否定する、『訴(うつた)ふ』説を。 でも、『うち・つたふ』では
いけなかったの? きみは何でも否定しすぎるよ。」と、その同級生は、
いなくなる寸前に、わたしへのいくつかのメモと、ことばとをのこして。
また「きみは悲しみを知るひとですから、いいえ、終ったのですよ、
悲しみの衣は、うっちゃるのです。」と、咳き込むように、「後生を吸い取る、
みこになるのです、ぼくは。」とも言いのこして。 「あなたは悲しみを
知るひとですから。」と繰り返して、あれから遠いね、五十年が経つもの。
「ぼくたちは恋愛の不能者であり、生まれながらにして失恋している。」
とも言い換えて、『反復』を読む権利をぼくらは持っている、とも付け加えて、
とりかえしのつかないおれの「人生(い)くる」はと、かれは「人生」のことを
ひといくると何度か呼ぶ、そのあと「みこ」になったのだと思う。
(最近、まったく別の新刊書のなかに「あなたは悲しみを知るひとですから」という一句を見いだして思い出した。「ことばの混乱って、だいじだよな、五十年を遡れるんだもの。」と私はいま、かれに答えたい。)