193 大切なものを収める家、の二刷り

藤井貞和

1905年に著された『海潮音』(上田敏)は 象徴詩を「日本」に齎しました。 そのあと、
自由詩と象徴詩とが結びつき、現代の詩は 大きくその傾向に規制されてまいります。
また、短歌や俳句の模擬というか、結社を作り、仲間をだいじにしながら詩を書く、
という傾向も、現代詩には 見られます。 社会を告発する詩は 政治の詩であると、
見なされることを恐れるのか、なかなか書かれないようです。 以上の結果として、
現代詩は 個人の趣味や、興味の範囲内で書かれることが多いです。 わたくしもまた、
個人の趣味や、興味を「大切なもの」だと考える一人であります。 しかし、今回の、
『大切なものを収める家』(1992)において、わたくしの取り上げようとした「大切なもの」とは、
個人の趣味や、興味と違う別の種類のものであります。挙げると、《民族差別、
クレオール(creole)語など少数者の言語、和歌などの古典語、女性短歌、
絶滅させられる動物、殺される神、排斥される神、縄文時代の土器、
滅んだ形式である旋頭歌、滅んだ恐竜、物語、女性差別、造反教官、一九六〇年代、
受験戦争、沖縄、老人問題、いじめ、機械打ち壊し主義(Luddites)、
そして湾岸戦争》でありました。 ははあ、これらがさしあたって、ですね、
作品に見られる限りでの「大切なもの」の一端です。 繰り返して言います、
これらは 個人の趣味や、興味に属するものではない、外部なのです。
わたくしは 現代の詩について、現代語で書かれることを中心に、と考え、伝統詩に対して、
批判的でありたい。 しかし、詩が緊張した内部を保つためには 伝統詩との、
交流を復活させることが必要だと思っております。 現代の社会、風俗には、
そのままだと、とても詩にならない狸雑な要素が多い。 逃げることなく、
挑戦し続けたい。 そのために詩の自明な成立を危うくさせられることがあっても、
怯まないでありたい。 かつて、大きな詩を書くためには、大きな悪魔との契約が、
必要でありました。 現代詩は しかし、たいていの場合、そのような大魔王との対立を避けて、
裏通りの日常生活の悪人、微小な悪魔たちを自分のなかに飼うことをするから、
大きな文学になりにくいのです。 わたくしの思いは 「大きな悪魔」そのものになく、
「微小」なそれらにとどまるのでもなく、その《あいだ》に定めることになりましょう。
とそこまで述べたとき、うしろの正面がひらかれ、大きな鬼が姿をあらわしました。
人食い鬼で、わたくしをむしゃむしゃ食いはじめました。 肉も、骨ものこりません。〈藤井よ、
おまえは きょうから鬼である。 これを食らえ。〉 骨と肉とを吐き出して、
わたくしに食わせました。 なんだ、私の骨と肉とであります。

(1992年の暮れの、済州島でのスピーチの記録と、そのあと見たこの夢に他意はありません。)