226 見合わせる

藤井貞和

駅のホームにたたずんでいると、聞くともなしに、
母と子との会話が聞こえてきます。

坊や「電車が来ないことをどうして〈見合わせる〉って言うの?」
母親「……」。

そりゃ答えに窮しますよ。 たしかに駅のアナウンスが、
〈しばらく運転を見合わせる〉などと言っています。

ところが、お母さんは答えようとします。
「ホームで待っているひと同士が、顔を見合わせて、

〈電車が来ないわね〉などと言い合うからよ」。
まだ当分、来そうにない若葉台駅の午後です。

(昭和20年代の前半〈1945~1950〉には、置き引きやかっぱらいという被害に遭っても、母のせりふだと〈いまはみんな貧しいからね、そのうちに悪いことをする人がいなくなる平和な時代がやってくる〉と、私はそれからの、ええっ、60年、70年を、〈そのうちに平和な時代が訪れる〉と、母の言を信じて現在に至る。新聞やラジオの報道は小学生の人生や教養の一部を形成したから、それらがGHQの統制(プレスコード)下にあったことをまったく知らない。〈落とすやつがいなければ落ちて来ない〉というような、危険な不協和音は〈しっ、静かに〉とかき消され、代わって戦後ということ、平和の式典、さらには平和公園を訪れるなど、いわゆる〈国民国家〉論がこの国の骨の髄にまで浸透する。それはかまわない、私どものだいじな人格形成の一部になったのだから。昭和27年だけは、解禁された書物や映画が世に問われた。しかし、概してプレスコードの時代は続いたというように見られる。言いたいことはそのさきにある。今年の夏は関東大震災の百年めでもあり、暑さにやられながら新聞(私の場合は朝日新聞)をわりあい丁寧に手にしているうちに、はっと気づいたことがある。プレスコードが77年後の今日にもそのまま生きているということを。悪いやつがいるとは、暗黙の統制下に集合意識化されて、報道される限りでは戦時下の苦労話や美談が口承文学や物語になり、まぼろしの〈平和公園〉をみなが訪れるのである。それでよいのだとは繰り返したいにしろ、前世紀の遺物としての戦争の時代もまた、たらたら繰り返される。願わくば大統領と首相とが駅のホームで顔を見合わせて、そいつの運転を延期させてほしいように思う。ああ、おれはだいじなことを言おうとしているのに、だれも聴いてくれない。)