教科書――翠の虫籠63

藤井貞和

人虎伝ブームということが昭和十年代かあって、「山月記」はその一つなりしという。
「蜘蛛の糸」のさいご、お釈迦様はなぜ冷たくぶらぶらと立ち去るのでしょう。
ヨーロッパ女性を妊娠させ、廃人になして逃げ帰りし日本人男のはなしが堂々と、
教科書に載せられているのですよ。彼女の眉をひそめしは「舞姫」のこと。
さて子供の、虎と蜘蛛と舞姫とを盤上にのぼせてコックリサンを始めると、
眠たき午後の魔は教室を襲う、こっくりこっくりするぼくらを乗せて先生の船。
虎を教室につれてきちゃ、だめ。天国から地獄を見るのに井戸があるなんて、
だめ。舞姫は表層で、うらに近代文学が燦としてあるさまを読まなきゃあ、だめ。
先生はだめだめだめを繰り返す。繭を解いて彼女は虎になりました、かの日。

(舞姫の連想で、『平家物語』巻五〈覚一本〉の終り「奈良炎上」は、丸腰の平家の軍勢を奈良の大衆が首狩りして、猿沢の池のほとりに六十箇並べたという。それで怒った清盛が大軍を差し向かわせると、奈良阪および般若寺で七千人を擁して城を築き、めちゃめちゃな合戦である。ここに「奈良阪」「般若寺」とあるので、「奈良阪」はいまの奈良阪とちがう。車谷口〈いまのジェーアール線辺り〉あるいはその西の歌姫口が往時の奈良阪だったと、新刊の『平家の群像』〈高橋昌明〉にある。舞姫と歌姫、関係ないか。『中島敦「山月記伝説」の真実』〈島内景二〉も参照する。虎や友情より、「山月」こそが主題だろう。戦乱に明け暮れるというのも背景にある主題の一つである。)