ふじーさだかず
沖縄戦の、
継続を望んだ男が、
5月4日以後になると、
沖縄への関心をうしない、
本土決戦準備へと、向かう。
側近を九十九里浜などへ派遣して、
調べさせるも、不十分であると知り、
6月22日、ついに和平工作へと、指示する。
(林博史『沖縄戦が問うもの』214ページ)
その日、沖縄の壊滅。 ヤマトの人と、もうあまり話すことがなくなった、と、
高良勉さんのメールから、声がする。 ヤマトの人たちは沖縄を三回殺した、と
声が力なく遠ざかる。
〔前回のコメントを、すみません、以下のコメントに取り替えます。〕(昨夜は「水牛」のサイトへ連載の原稿を入れるために、数年まえ、二〇〇五年四月のアップを取り出し、どうしようかと思案した。六十八回の連載で初めて「再録」を今回はやってみようと思いついた。この〈琉歌〉は私一箇にはいまの時にいちばん相応しいという気がみずからする。「抗議の 三千日」は、二〇〇五年四月に出した際に、「三百日」と適当にやってしまい、やんわり注意してくれた人がいて、今回は訂正できた。「三千日」というのも適当ながら、琉歌としての語呂もあって、正確に何日とすべきか、むろん毎日、ここは変える必要がある。「の」は沖縄語で「ぬ」と聞こえるので「海人ぬ」「八八八六ぬ」などと書き、「抗議の」は「の」にしてある。海の死は人類の死である。けれども、二十八日(五月/二〇一〇年)、深夜になって、力強い報道がはいってきた。嘉陽のオジー(八十七歳)の言う、いつか「四度目の日米合意」があるさー。名護市での市民集会で、最も湧いた場面がある。嘉陽宗義氏が訴えたときだと言う。「もし鳩山首相から莫大なお金と感謝状とが来ても、辺野古の海に捨ててください。将来、必ず、子や孫からありがとうと言われる日がきます」。嘉陽氏にとって、今回の日米合意(三度目)は気にも留めないという。鳩山氏は、徳之島、桟橋方式などのダミーを空砲のように打ち上げながら、三度目の日米合意(県内移転)へと帰ってきた。これもダミーだろうと私には見られる。ダミーはだれかが言い出すと、ある程度は現実化する危険があるにしろ、辺野古の海へ桟橋を張り出してヘリポートなり滑空路なりを作る案について、米軍が「それではテロ攻撃の危険に対して守れない」と言い出す始末で、沖縄へ新たな危険を呼ぶ案なのだと図らずも明かされてしまう。おなじく深夜になり、福島瑞穂氏(社会民主党党首)が、「私は沖縄を裏切れない」。喜納昌吉氏の新刊『沖縄の自己決定権』(未来社、二〇一〇・五)の表紙に、「この本で世界が変わる」。一ヶ月まえ、四月二十五日には、沖縄県民が意見を一つにまとめた英知を見ることとなった。県外国外への普天間基地移転を求める県民大会が九万人余で開催されたという。「ヤマトからは来ないでね、沖縄の人たちだけでやるから」と、ヤマト(県外のことを沖縄からは「ヤマト」と言う)の人たちは釘をさされ、各地で沖縄県民大会を支援する集会が同日に取り持たれたはずである。沖縄の、じつにさまざまに意見がある、それが一つにまとまることの意義は、ちょっと類例のないぐらいだ。すじを通してゆけば〈自己決定権〉にたどりつくと見る人々も、「県外国外への基地移転」で統一させることとなった。考えてみると、「国外」よりも「県外」のほうが過激なのだ。ヤマトの一人一人へ、あなたたちはどう考えるの? と投げるボールが「県外」には籠もる。「国外」では何も考えないヤマト人を増やす。それから一か月、見ていると、ヤマトは冷たくて、無関心を装い、沖縄に対しての、ほんとうに差別感がある。ふつうは出てこない、差別感情が、ヤマトにはあるんだ、沖縄への、と気づくときがある。何をいまさら、と私に向かって言わないでほしい。この一か月、ヤマト人が、ちらちら覗かせる底意にふれて、その場では平然と、ときには口汚く、私には帰宅して何度か泣きたい感情的な気分に襲われる。何もできないんだな、これが。ヤマトのなかには、沖縄のなかで言われてきたことがほんとうなんだ。沖縄研究をすこしは、長年やってきたつもりのおまえが、わかっていない。何としても政権離脱をしないように、というのが私の意見だ。たかが対米交渉で、ヤマトが割れることぐらいみっともないことはない、沖縄、そして徳之島の人びとを見習うなら。五十年という安保体制。困難をきわめるぐらい、みんなで許し合えるのでなければ。……でも、福島さんの顔がこんやは輝いてる、かぐや姫みたい。「沖縄を裏切れない」って。罷免を受けいれてよいと私は思った。政権離脱もやむをえないと、いま許すきもちになった。さいごまで連立の道をさぐり(小異を捨てて、何とか可能性をひらく、というのがこれまでの沖縄のがまんだったのだから)、「四度目の日米合意」(嘉陽氏がちゃんと見ている)へと、希望をつないでゆくことがいまだいじだろう。でも、どうしても政権離脱以外に道がないなら、それなりに福島氏の自己決定権であり、尊重しよう。五月二十九日、朝)