撒水象 ――翠ぬ宝73

藤井貞和

フジー・ゴーサラ(藤井貞和訳)

タカハシ・カズーミ「西暦紀元前六百年頃、耆那(ジナ)大雄と八年間の
苦業をともにした、後世、邪命(じゃみょう)派の始祖と名づけられる、
その人に八終局という思想があります」(『ジャシューモン』三)。
ゴーサラ「最後の飲酒、最後の歌唱、最後の舞踏、最後の誘惑、最後の
旋風と、そこまではわかるんです。 最後の石弾戦もわかります。
最後の撒水象って、何だろうな。 象が鼻で水を撒いたのかもしれません」。
カズーミ「最後の愛による最後の石弾戦は、石が華に変わるとき、
散り敷く華よ、きみに命じるだろう。 ――地底の神が33人を見捨てなかったように、
地上をも見捨てないならば、ちいさなちいさな愛の一つを見捨てずには、
そのちいさなちいさな命を二つ、三つと、餓死から救わないならば、
それが報道されずには、知らされぬままに終わるならば、ここから消されるならば、
天上は最後の撒水で世界を大きな水槽にし終えることだろう、と知れ」。 

(理科部の電導についての発表で、おおぜいを前に、電極を大きな水槽にいれて、電圧をあげてもランプが点かないことを示すと、「水は電気を通さない」と結論づけました。銅線は電気を通す。硝子は電気を通さない。では水は電気を通すか。最初の子どもが器用にやって見せて、「はい、銅線は電気を通します」。つぎの子が、「硝子は電気を通しません」。ゴーサラの番が来て、不器用に何度もやってみせたあと、「このように水は電気を通しません」と結論づけたから、おおぜいがざわつきました。顧問の先生があとから、「その結論でよい」と支持してくれた。しょっちゅう、感電していた昭和20年代で、ぬれた手で電気をさわるなと言われていた時代に、ちょっとした勇気の要る研究発表でした。「撒水象」から思い出した。でもどうつながるのか、よく分からない。粘菌〈?〉の生殖について1ヶ月調べて発表したこともあります。)