13のレクイエム ダイナ・ワシントン(3)

浜野サトル

  
人の心の奥深くには、闇の部分がある。そこに何ものが隠されているか、他人には知る由もない。それどころか、覗き見することさえできない。いや、当の本人だって、闇の存在に気づかないということだってあるだろう。

15歳でデビューしてからのダイナ・ワシントンの物語は、一見すると単純きわまるサクセス・ストーリーである。まずは、天賦の才を認められ、ゴスペル界のトップ・クラスのグループの一員となった。ゴスペルでは物足りなくなってジャズに転身すると、またもその才に注目する人物が現れ、ジャズ界きっての人気バンドにスカウトされた。バンドでの活動はレコード会社が目をつけるところとなり、レコード・デビュー。すると、レコードは好調なセールスを記録し、ダイナはスターの座へとのぼりつめた。

ここで注目しなくてはならないのは、そうしたサクセス・ストーリーの背後にあるダイナ自身の強烈な意欲だろう。どんな意欲か? ベッシー・スミスとビリー・ホリデイをアイドルとし、エセル・ウォーターズからも強い影響を受けた彼女のパフォーマンスは「黒人音楽」という河で育まれたものだ。しかし、彼女自身は、「黒人音楽」という枠の中にとどまることを望まず、人種や階層を超えて支持されるビッグ・ネームであろうとした。
そのことは、まさしく「黄金時代」と呼ぶしかない1950年代中葉から60年代初頭にかけてのダイナのレコーディングに見事に反映している。

ダイナのマーキュリー/エマーシーとの契約は1946年から61年まで続いたが、その初期からカントリーやポップスのナンバーを多く手がけている。万人が認める代表作の1つ『縁は異なもの』にしても、取り上げられた曲のほとんどはポップ・チューンだし、伴奏も堅物のジャズ・ファンなら顔をしかめるだろうストリングス入りのオーケストラだった。

1962年にルーレットへ移籍してのちもこの傾向は変わらず、ビング・クロスビーの「夕陽に赤い帆」や「ザッツ・マイ・ディザイアー」のようなありふれたレパートリーが目立つ。彼女自身の生き方をタイトルにしたような『ドリンキング・アゲイン』(62)では、トーチ・ソングが多く歌われている。
ありふれた曲に新しい生命を吹き込むのはジャズマンの多くが得意としてきたことだが、彼女の場合はそれとは少し方向が違っていて、白人が好む曲を歌えば白人の聴衆からの支持を得られるはずだという野心の存在が大きかったと感じられる。

野心だけではない。その野心を実現させていくためのエネルギーも猛烈だった。ルーレットでのレコーディングは翌63年までの2年足らずの期間だが、残されたアルバムは7枚もある。ダイナはまさしく「猛烈に働く人」でもあったのだ。

  
猛烈な勢いで働き続けるダイナのエネルギーは、当然ではあるが、生活の別な面にも向けられていた。まずは、ファッション。ゴスペルからジャズへと転身していって人気を博した10代後半、彼女はすでにかなりの高給とりだったが、給料の前借りの常習犯でもあった。ほしいと思ったら、がまんできない。そんな性格のために、ドレスや靴(ダイナは靴マニアで、200足持っていたといわれる)の請求書が山のように押し寄せていたのだ。
事実がどうなのかはわからないが、ドレスの値段が700ドルだったか7000ドルだったかで諍いとなり、ダイナが相手に銃をつきつけたというエピソードもある。

ファッションへの過剰な投資がきらびやかな表舞台での出来事であるとしたら、その裏側ではアルコールとダイエット薬品への耽溺が確実に進行していた。1958年、ダイナは酒代の不払いで逮捕されたことがある。出演していたクラブでステージがはねたあとに飲んでいた酒の量が並みではなく、出演料をはるかに超えていたのだ。
それだけのアルコールを摂取すれば、当然の結果として身体は太りがちになる。しかし、それではせっかくのドレスがだいなしになる。それで手をつけるようになったのが、ダイエット薬品だった。どんなダイエット薬をどの程度摂取していたのか、具体的なデータは何も残されていないが、酒量が増えるのに比例してダイエット薬の摂取が多くなっていけば、命を削る結果になるのは目に見えている。

しかし、ダイナは自分を制御しようとはしなかった。彼女は、自分の思うがままに生きようとし、事実そうした。その生き方は典型的な「破滅型」とも見えるが、必ずしもそうとばかりはいえないだろう。むしろ、彼女は自分に嘘をつくことができない気質だったのではないか。自分が望むことは常に正しいことだと認め、それを押し通した。
そのことは、ダイナの結婚生活にもあてはまる。

わずか39年で終わった生涯の中、ダイナは8度の結婚をした(9度という説もある)。最初の相手はジャズマンで、これは若くしてショー・ビジネスの世界に入った女性にはありがちなことだ。しかしながら、その後の結婚相手の職業は牧師の息子、俳優、プロ・フットボール選手など多彩である。子どもがいろいろなおもちゃに気をとられるように、顔つきやスタイル、人格だけでなく、属する世界も異なるさまざまな男たちへの好奇心が、彼女を駆り立てていたのだったろう。
結婚生活上の倫理観にも頓着しなかったダイナは、8人の亭主以外にも常に数え切れないほどの男たちを恋人として連れ歩いていたらしい。

  
1963年12月14日、ダイナは突然に倒れ、そんな奔放な生活に幕をおろした。直接の死因は心臓麻痺だったが、引き金になったのは酒とダイエット薬を一度に多量に飲んだせいだった。
皮肉な事実がある。不意の死におそわれたとき、ダイナはダイエット薬を必要とする身体ではなかった。棺におさめられた彼女の体重は、わずか27kgだった。

(了)

※参照=『The Complete Dinah Washington on Mercury