しもた屋之噺(81)

杉山洋一

8月の東京は本当に久しぶりのことで、どんなに暑いかと覚悟をしていましたら、思いのほか過ごしやすい毎日です。昨日でジェルヴァゾーニの音楽会もおわり、桐朋で彼の作曲のレッスンの通訳をしてミラノにもどります。東京シンフォニエッタも都響も、毎日すごく楽しく練習することができました。こんなに情熱をもってみなさん取組んでくださるのだな、と、どの練習でも内心とても感激しておりました。本番中は客席には聞こえていなかったとはおもうのですが、いつも曲の最後、拍手の前に、思わず、ブラボーと声を出していました。練習でもそうでしたが、毎回確実によりよい演奏になってゆき、前に通したときより、ずっと音楽的に深くなっているからです。当り前じゃあないか、と笑われそうですが、何しろ演奏とは水ものですから、何がおきても不思議ではないのです。だから、こうして演奏会が最高の演奏になるのは、一緒に演奏していると何より嬉しいし、さすがにプロだな、見事だなと感嘆しました。

サントリーのように、大きな音楽祭でも、演奏者や指揮者をはじめとして、舞台の裏方のみなさんや、事務局やマネージメントのみなさんが、同じベクトルにむかって仕事をしている実感も貴重な体験でした。また、東京シンフォニエッタでは、高校から同級だったチェロの宇田川さんがいたし、都響にもチェロの富永さんやヴァイオリンで同級の嘉門さんが乗ってらしたし、まだ大学生のころ、始めたばかりのCMの仕事でご一緒したチェロの松岡さんから、一緒にヴァイオリンを習っていたスギゾーさんが連絡とりたがっていたよと伺ったりとか(ご両親が都響でした)、ヴァイオリンの遠藤さんから、大学時代、学生ホールでよくお会いしましたね、と声を掛けて頂いて、ようやく誰だか思い出したり(すっかり立派になられて!)、こういう懐かしい出来事は、気持ちがとてもほぐしてくれます。

テーマ作曲家、ジェルヴァゾーニも大きな成功をおさめたようで、演奏者として少しほっとしているのですが、それにしても今回、カスティリオーニは最初から最後まで悪戯好きだったようです。手書きの巨大な印刷譜は、都響の一番大きな「スーパー・ノビルくん」なる譜面台からもはみ出す大きさで、ミラノから荷物を預ければ積み忘れで成田に届かず、泣く泣く空港からそのまま東京コンサーツで、縮小コピー譜を用意していただき、その日一日製本につぶれてしまったり、あの重たい楽譜を衣装カバンに無理やり詰めこみ毎日練習に出かけていたら、本番前日から腰の辺りがすっかり痛くなり、本番中それは酷い思いをさせられたり(結局今は桐朋の保健室からコルセットを借りているありさまです)、いざ練習を始めてみれば、パート譜とスコアが全く違い、どうやら作曲者は初版のあと、あまりに演奏が難しかったためか、弦楽器パートを大幅に変更してあり、舟歌と題された二つの楽章にいたっては、副題もNenia(挽歌)とすげ替えられ、管楽器、弦楽器がほとんど削られていて、切り詰めた練習時間のなかの貴重な初日は、殆ど練習になりませんでした。

実は妙な予感がして、カスティリオーニははじめから、まずパート譜を見たいとずっとおもっていて、夏前、リコルディに打ち合わせに行った際、カスティリオーニのパート譜を見せてくれないか、ちょっと気になるから、と販促部のアンナマリアに話したところ、もうとっくに送っちゃったわよ、何度も演奏されている曲だから心配ないって、と笑ってとりなされてしまった挙句の出来事でした。

ああ、東京くんだりまで来ても、このイタリア流いい加減さに翻弄されるものか、とさすがに恨めしくもおもいましたが、GPのあと、東コンの垣ヶ原さんが、「あのカスティリオーニは素晴らしいね!」、と上気して話してくださったのを聴いて、ああ本番も頑張らなければと、痛む腰をおさえつつ、気持ちを少しリセットすることができました。

何といっても、都響の演奏のお陰なのでしょうが、演奏会後、湯浅先生をはじめ、皆さんが口を揃えて「カスティオーニは凄い作曲家だね、良かったねえ」、と話しているのを聞いて、うれしいようなびっくりするような、妙な心地でした。何しろ、生まれてこれまで腰痛なんて全く無縁だったはずが、本当に腰が痛いわけですから。

ミラノを発つ数日前、互いに忙しい譜読みの合間に、無理やり時間をつくってエミリオのところを訪ねました。そのとき、彼が5月だかにドイツで演奏した作品の録音をかけて、「これが誰の作品だかわかるかい」と悪戯っぽく笑いました。
メロディアスで、質感は打楽器が多用されていてキラキラ輝いています。でも、それはフランス風なポリッシュな手触りではない。即座にイタリア人だということはわかりました。マデルナかしらん、でも聴いたことがない。「音の質感、色感はカスティオーニなんだけどね、知らないな」、というと、満足げに大きく頷き、「その通り、これはカスティリオーニなんだ。最初期でね。完璧なセリエールで書かれているのに、この美しさを聴いておくれよ!何とすばらしい作曲家なんだろう。間違いなく、これから彼はどんどん再認識されてゆくに違いない。これ程の作曲家にはなかなか出会えるものではないからな。お前もInverno In-Verしっかりやらなきゃだめだぞ」、と。

8年前のちょうど同じころ、8月初めだったと思います、あの年は思いがけなく暑い夏でしたが、同じように家族をヴァカンスに送り出したエミリオと2人きりで会い、ベランダの大きな食卓でプロメテオの楽譜を二つならべてケンケンガクガク打ち合わせをしていたことを思い出します。今回ミラノを発った17日は、ちょうど8年前、ドナトーニが息をひきとった日にあたります。あれから8年。長いような、短いような、まるで時間軸が崩れて4次元の世界をみているような、妙な感覚に陥ります。ただ、17日に日本を発つと聞いた瞬間から、きっと今回の日本滞在はドナトーニがみていてくれるだろう、と一種の安心を覚えたことも確かです。彼の曲は全く演奏しないのに、都合のいいことですが。

もっとも、9月4日にミラノにもどり、翌日朝から7日にあるローディの現代音楽祭のため、殆ど演奏されることのないドナトーニの2作品、弦楽器群のための「Asar」と「Solo」のリハーサルが始まりますが、とにかく今回安心して演奏できた精一杯の感謝の気持ちをこめて演奏するつもりです。今頃あちらでカスティリオーニとドナトーニは何の噂話をしていることか。

都響の演奏会前、控室でいつもにこやかな垣ヶ原さんの声が弾みました。
「今回、2人の作曲者はこのあたり、12番の席に座っていますから、それぞれ演奏が終わったら呼んでくださいね。エエト3曲目のときは……、呼ばなくても、上から自分で勝手に降りてくるでしょうからご心配なく! ということで、じゃ一つよろしく!」

(8月31日三軒茶屋にて)