13のレクイエム ダイナ・ワシントン(1)

浜野サトル

 
『Dinah Jams』というアルバムがある。日本ではこのほうが売りやすいからだろう、『ダイナ・ワシントン・ウィズ・クリフォード・ブラウン』という邦題がついている。ダイナ・ワシントン(vo)もクリフォード・ブラウン(tp)も、それぞれジャズ史を語る上で欠かせないビッグ・ネームである。ただし、日本では、1950年代から、クリフォードのほうが人気も知名度も高かった。だから、邦題には彼の名が入れられた。どちらも夭折したミュージシャンなのだが。

夭折についてはあとで述べるとして、これはジャズ史に残る名盤であると同時に、特異な記録でもある。何が、どう特異なのか。

演奏内容の問題ではない。単純に録音形式が特異なのである。聴けばすぐにわかることだが、録音には聴衆の拍手や歓声がいりまじる。つまりは、ライヴ。しかし、クラブやホールでのライヴではない。会場はレコーディング・スタジオだった。

録音は1954年。当時は、クラブやホールの演奏を高品質にライヴ収録する技術はまだなかった。ライヴ録音が皆無だったわけではない。『ミントン・ハウスのチャーリー・クリスチャン』という掛け値なしの名盤がある。1941年、ニューヨークのジャズ・クラブでのライヴ録音。しかし、ここでの音は、オーディオ狂の好事家の手によって紙テープに録音された。それ以前のエリントンやベイシーのライヴ盤も、同じような経緯でレコードになった。そういう時代だった。

聴衆が目の前にいるライヴには、スタジオ録音にはない独特の熱気がともなう。それでは、会場の熱気をまるごとハイ・フィデリティで収録するには、どういった手段が考えられるか。スタジオに客を集めて、疑似ライヴを行う。それしかないという判断で実現したのが、この『Dinah Jams』だった。

選ばれたのは、ロサンジェルスのキャピトル・スタジオ。当時、アメリカでは最先端の、ということは世界でも最先端の録音設備を誇ったスタジオだった。演奏に参加しているのはほとんどがアメリカ東部で活躍していたミュージシャンたちだが、それなのになぜ場所はロサンジェルスとなったのか。ハリウッドである。ハリウッドがらみの仕事があるから、ロサンジェルスの録音スタジオにはふんだんに資本が注ぎこまれた。結果として、ハリウッド消費文化が、ジャズ史の貴重な1ページに寄与した。そういうことだ。

  
『Dinah Jams』の原液となった演奏は、ジャム・セッション形式で行われた。1954年8月14日。夏の盛りの1日、午前中に始まったセッションは、夜になっても終わらず、約20時間続いた。ジャムだから同じ楽器を演奏するミュージシャンが複数集められていたが、その中にあって歌とドラムスだけがそれぞれ1人だった。歌はもちろんダイナ・ワシントン。ドラムスはマックス・ローチだ。つまりは、この録音は「マックス・ローチの驚異のスタミナを楽しむべきもの」といってもいい。

20時間にわたったセッションは、結果として2枚のアルバムに仕上げられた。1枚は『ジャム・セッション/クリフォード・ブラウン・オール・スターズ』。残る1枚が『Dinah Jams』だ。

ということからも想像されるように、『Dinah Jams』には、ダイナ・ワシントンの歌を中心とする演奏だけが集められている。実際にはダイナ抜きの演奏もたくさん行われていて、そちらが別アルバムにまとめられた。

しかしだ、それでいて、このセッションは、ダイナのためのセッションだった……という実感がある。細かい記録は何も残っていないから、事実がどうだったのかはわからない。しかし、音楽を聴いていると、そういう実感がする。なぜか。ダイナを取り巻くミュージシャンたちの演奏、ことにクリフォード以下3人のトランペッターのプレイに、ダイナへのこの上ない深い愛情を感じないではいられないからだ。

例えば、冒頭の「恋人よ我に帰れ」のエンディングを飾る3本のトランペットのこよなく美しいオブリガート。「アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン」のこれまた3本のトランペットによるユニゾンのダイナミックなエンディング。これほど熱気と集中力のこもったプレイも珍しい。このセッションにあって、というよりは当時のジャズ・シーンにあって、ダイナはまさしく美しい花であり、光輝く存在だった。

ダイナの歌唱自体、もちろん見事なものだ。彼女はここでは、最高のしもべたちを従えた女王様然としてふるまう。美には美を、ダイナミズムにはダイナミズムを。トランペットのフレーズが高鳴れば、彼女も張りのあるシャウトで返礼する。と思えば、スロー・バラードでは静かな歌声がおそろしいほどの感情の深みにまで達する。

個人的には、これらの歌にいったい何度、どれだけ深く強く勇気づけられてきたことだったか。歌われているほとんどは、ティン・パン・アリー系のありふれたラヴソングである。しかし、歌の中味など関係がない。言葉は破片であっていいのだ。「意味」の代わりにここには「力」が、生きている人間が演ずる音楽の生き生きとした躍動がある。その力が、この1作をジャズ100年の歴史を語るに欠かせない名作とした。

  
しかしながら、聴いていて、何ともいいようのない違和感に襲われる瞬間がある。その違和感は、ダイナの歌唱そのものから発する。

例えば、「恋人よ我に帰れ」の最初のヴァース。

  The sky was blue and high above
  The moon was new and so was love

ダイナは、1語1語をおそろしく明瞭に発音しつつ歌う。ほら、あたしはこんなにもきちんと英語を発音できるのよ、とでもいいたげに。そうして、間違いなく意識的になされている明解な発音は、彼女の過剰な意識の存在を想像させる。

ダイナ・ワシントンは、しばしば「ブルースの女王」と呼ばれた。しかし、アメリカの黒人たちが同じ黒人たちを聴き役として歌うときのブルース独特の表現、一聴曖昧だが、黒人たちにあってはまさしく王道というべき独特の表現は彼女にはない。

彼女はブルースを得意としたが、ブルースは素材であるに過ぎなかった。『Dinah Jams』に参加した聴き手たちは歓声に感じられる野太い声の調子からして黒人主体だったと思われるが、彼女の歌唱は「黒人という同胞」に向けられたものではなかった。彼女の視野にはもっと広い世界があった。いや、端的にいうなら、彼女は人種の違いやジャズという音楽ジャンルの垣根を越えて、ポピュラー音楽という世界をまるごとその手におさめたかったのではないか。そういう野心の持ち主だったのではないか。そして、そのことが、彼女独特の歌いぶりにあらわれていたのではなかったか。

あるいは、ダイナはただ単にコンプレックスの強い人だったのかもしれない。何よりも、黒人であることからくるコンプレックス。黒人たちの身体能力が秀でていることを感じないではいられないような、のびやかでダイナミックな歌いぶり。あきれるほどのリズム感の素晴らしさ。ややハスキーな声を思う存分駆使した、感情表現の見事さ。彼女の歌は、黒人の優位性をこれでもか、これでもかと感じさせるものだった。しかし、彼女自身は、そのことに満足はできなかった……。

かぎりなく魅力的で刺激的なダイナ・ワシントンの歌。しかし、その歌声の底からは、彼女自身をあまりにも早い死へと追いやった何ものかが見えてくる気がしてならない。

(続く)

※参照=『ダイナ・ワシントン・ウィズ・クリフォード・ブラウン』