誰もいない夜の電車で静かに牛乳が

笹久保伸

カッ、カッ、カッ。

近くから、12チャンネルに録音された1人の人間の足音が聞こえて来て、まだもう少し寝ていたいと思いながらも、目が覚めた。彼女を救わなくては・・・

カッ、カッ、カカッ・・・カカカッ、カッ・・・・カ・・・

あれ? どこだ?
そうか、私は電車に乗ったんだ。渋谷での仕事を終えて秩父行きの終電にギリギリ間に合ったのだ。

・車両に乗客は一人もおらず、いるのは青い服に黄色のヘルメット、頑丈そうな体つきをした12人の男達だけだった。
どうやら彼らは何かの作業員のようだ。
気がつくと、なぜか電車は動いている様子ではない。
周囲はやけに暗い。
終電の時刻なので周囲が暗いのはわかるが、どうやらこの電車はトンネルの内部で停車している、もしくは停車したばかりのようだ。

1両目には運転室があり、そこには車掌がいるのだが、突然運転室の扉が開き、車掌は12人の作業員を運転ルームに入れ始めた。
作業員達は運転室から外へ出るための扉を開けて外(トンネル内)に下り始めた。
「そうか、もう電車が通らないこの時間から作業員達は仕事を始めるんだな。しかしこの夜の暗いトンネルで、それもこんな真夜中から仕事なんて大変だ・・・。」

とは言えトンネルはいつでも暗いし、湿度がある。
いつも夜みたいだ。
・心の中ではポトシ銀山で死んでいった、あまりにたくさんの奴隷たちの事を想っていた。

ふと気がつくと目の前の通路に、白い液体がダラッとこぼれていた。
「うわっ!何だこれは、汚いじゃないか、きっと私が寝ているうちに誰かが牛乳をこぼしていったのだろう。困ったなあ・・。」

牛乳はエアコンによって暖められた車内の空気と混じったせいか、少し粘り気を出して、足で踏むとベタベタと言う感触がする。

12人の作業員達は一列になり、順番にその扉から電車の外のトンネルへと下りて行った。
作業が始まるのだ。(一体何の作業なのかは一般の乗客には知る由もなかった。)

アナウンスが入った。
「・・・乗客の皆様、電車は停車しておりますが、まもなく発射致しますのでご注意下さい。」

停車していたせいなのか、電車は一度少しだけ後ろに動いた後に前へ向かって動き出した。 やけにゆっくりと・・・。

「ああ、トンネルと言うのは暗くて嫌だなあ、早く外に出たい。」

仕事で疲れた体を動かしながら通路の牛乳に目をやると、牛乳が固まりのようになっていたので自分の目を疑った。
それはどこかの海の中にぼつんと浮かぶヨーグルトのようだった。

「ああ、きっと疲れているんだ。とにかく早くこのトンネルの外へ出たい!
それに、一体何なんだこの牛乳は。気持ちが悪い上に恐くなってきた。」

・牛乳は次第に(独りでに)形を作ってゆき、少し経つと上下左右にピクピクと動き始めた。

「何だこれは、こんなものは見た事がない・・・。」

カツカツ、カツ。カツカツ。足音が聞こえる。
トントン、トン。トントン。と何かを叩く音と聞こえるはずのない笑い声が確かに聞こえる。

電車は次第に速度を上げて、出口へと向かった。

私はその時の光景を今でもはっきりと、明確に記憶している。
しかしまだ誰にもそれを喋った事がない。恐怖と、喋っても信じてもらえないのではないか、と言う不安からだ。

電車はそのまま出口へと近づき、やっとの事でトンネルを出るその瞬間、
通路にぶちまけられていた牛乳が真っ黒な牛になったのだ!
牛になったと言うのが正しいのか、牛に戻ったと言うのが正しいのか、言い方はともかくとして・・・とにかく真っ黒な牛になっていた。

「ああ、あの白い牛乳が、とうとう黒い牛になった・・・。」

トンネルを出た瞬間に牛の姿はどこかへ消えて行った。
(牛はどこかへ生まれていった。)

一方、その電車はトンネルの外に出たが、私はまだ電車の中で出口を見つけながら移動している。
いや、もうすでに死んでいるのかもしれなくて、ただそれに気がついてないだけなのかもしれない。
とにかく、わからない。

どこまで遠くへ歩いても、その足音や血液が体内を循環し続けるごく短い時間内において、歩く行為は自らの記憶の種子へと回帰してゆく。
牛は牛の足音の中を、私は自分の靴の足音やカバンの夢の中で異性を探し彷徨って電車の通路にこぼれている牛乳ように・・・
誰もいない夜の電車で座って(こぼれて)いた。

『秩父前衛派の孤独の骨の夜』より