オチャノミズ(その2)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

「アメリカのギターはめちゃ高いなあ」と、わたしはこぼす。

ふとそのとき、ブッシュ大統領の顔が浮かんできた。あいつは嫌いだ。現世で同時代になるような因縁でもあったものか。もしもアイ ヘート ユー、ブッシュと書いたシャツがあれば買ってきて、3日3晩脱がずに着続けてやるのだが。

駅は人の往来で込み合っているが、昔と同じように泰然とそこにある。10年前わたしの友人のひとりがヨーレイ(浄霊)教(訳者:オーム真理教)にはまっている信徒の前に立ったものだ。ウィラサックだ。催眠にかけられたかのような表情をして立っていた。一方その若者はといえば、奇妙ないでたちで、日本の時代物映画で見たことあるような竹で編んだ平べったい帽子をかぶっている。何か日本語で呪文をつぶやきながら掌をウィラサク向けてこころを鎮めようとしているかのようだ。

東京のような肥大した社会では一風変わったことに次々と出会う。定住する家もなくてなんだかごちゃごちゃと物を抱えて歩き、公園のベンチに身を横たえる者たちがいる。こういった連中の過去には興味深いものがある。聞いたところではイデオロギーとか主義主張を持っていたタイプの者がいるという。かつては教師講師の類だったかもしれない。それがついには何にも拘泥されない生活を選ぶことになった。わたしもかつてそういうことを考えたものだ。

タイでも髪は伸びてぼさぼさ、いろいろなものを抱え込んで歩くアホとか化け物と呼ばれる路傍の旅人、苦しみも幸せもない人、について、わたしは考えたことがある。何か深いところで気づかせてくれるものがあるのではないか、と。彼らの空こそが涅槃なのではないかと。

けれどこの国のホームレスはタイのいろいろなものを抱え込んだアホというのとは違う。彼らは自分の世界が多々あるかのように黙して語らない。周囲に人がいないかのようにゆっくりと歩き、話さない、努力しない、交流もしない。いかんせん話しかけるのが難しいのだ。