終わりのない話

笹久保伸

楽器は不思議で、良い楽器を使ったからといって良い音が出るとは限らない。発展途上国に行くとボロボロの楽器での演奏に感動させられる事がよくある。そもそも「良い音」などという音はあるはずがない。聴覚は一人一人異なるし、聴こえ方も厳密には異なる。つまり「良い音」とは各自異なる。また味覚にも言えるが「好み」などは育った環境、幼い頃に食べてきたもの、体験によって決まる。一体誰が「良い音」を作ったのか。

この世には数えきれないほどの音楽が存在するが、音楽は聴き方も感じ方も、考え方も自由である。例えば西洋音楽は世界的に普及しているが、理由はその政治力(戦争に強かった、など)が原因で、西洋の音楽自体がこの世で「最も優れた音楽」だったからではない。(と思う)

グレゴリオ聖歌を仏教で言うところの声明(お経)に例えるとすると、もしも過去、アジアが西洋よりも戦争に強かったら、経典や声明を基に数々の音楽の定義が生まれ、今とまったく異なる音楽史ができていただろうし、「良い音」の価値観も現在とはかなり異なるであろう。琵琶や三味線、琴などが世界中に広まり、今日本人がバッハを弾くように、多くのドイツ人が八橋検校の曲などを苦労しながら弾いていたら、どんな感じだろうか。

しかし歴史はその道を選ばず、今に至る。

これは自分の体験からも言える事だが、例えば私は民族音楽を研究し演奏する、現地の人々が弾くように弾きたいと思い努力し、ある地点に立ちふと気がついた事、いくらそれらしく演奏しても、私が弾くのと現地の人が演奏するのではその「意味」が異なる。技術や音楽性とは別の次元のテーマである。良くも悪くも、現地に生まれなおさない限り、ある意味永久に現地の人々のように演奏はできない、と言える。

ペルーアンデス音楽の場合、「貧しい農民の生活(人生)を知らずに彼らの音楽を演奏できるはずはない」とペルー人音楽家に言われ、では農民の生活を知ろうと思い、山岳地域に行っても、住んでも、それを知っても、外から見るだけでなく中へ入っても、結局彼らとは異なる状況下に自分は存在している。しかしそれはペルー人にも同じ事が言える。都会生まれの音楽家はインディヘナ音楽を決して上手く演奏できない、とよく人は言う。(都会の人間に貧しい農民の痛みが分かるはずがない、という観点からである)

このテーマを他の演奏家に聞くと「考えないほうがいい」と言っていたが、これは永久に考え続けられるテーマであろうと思う。そもそも都会人もしくは異国人による「インディヘナ音楽の演奏」とは一体何だろうか。それは「都会人もしくは異国人による、インディヘナ音楽」であり、そう聞くとある意味変な感じがするが、かと言って西洋音楽を弾く日本人や、バッハを弾くカナダ人のグレン・グールドに人々はあまり違和感を持たない。

「演奏」も、その文化に生まれた人の演奏だからと言ってすべてが素晴らしいと言えるのだろうか。答えは、そうであり、そうではない。

ペルーの人類学者・作家のホセ・マリア・アルゲーダスは、アンデスの田舎町アンダワイラスに生まれ、いわゆるインディヘナ文化の中で育った。しかし彼の両親は白人系であるため、(山岳地域に生まれたのにも関わらず)インディヘナの人々とは異なる、という強いコンプレックスを常に持っていた。アルゲーダスは白人系であるが、アンデス文化で育った事もあり、逆に、都会の白人系の人々ともあまり上手くやっていけなかったし、一方インディヘナとも違い、
精神的居場所がなくとても苦労したそうである。

何をするにしても、正面から進むという事は多くの壁(闇?)にぶち当たり、もしかしたら、永久にそこから出られないのかもしれないが、しかしそうする以外に他はない。