仙台ネイティブのつぶやき(25)寒い夏に耐える

西大立目祥子

仙台では、この夏、7月22日から8月26日まで36日間雨が降り続き記録的長雨となった。しとしとした雨が止んだかと思うとまた降り出し、朝起きて今日はくもり空かと思っていると、いつのまにか霧雨に変わっている。気温も低く、寒がりの私は長袖を羽織る日が多かった。

オホーツク海に高気圧が居座り、冷たく湿った海風が流れ込んでくるためだ。東北の人々が「ヤマセ」とよんでおそれてきた北東の風である。雨天が30日間を過ぎるあたりから、地元メディアでは「昭和9年(1934)の35日間に迫る」という報道がなされるようになった。「昭和9年」と聞いて、ひやりとする。東北各地が深刻な凶作に苦しんだ大冷害の年として記録に残されているからだ。

「ヤマセ」はおそろしい。初めて身を持って知ったのは大冷害となった平成5年(1993)の夏だった。このときも、ひと夏気温が低く雨の日が続き、カーディガンを手放せなかった記憶がある。私にとっては、ちょうど仙台東部の農家の話を聞き始めた時期で、冷害の予感の中で聞く農家の人々の苦労や発せられる言葉が胸にしみた。
農家にとっては豊作が何よりも願いなのに、どんよりしたくもり空の下に広がる目の前の田んぼの稲は、日照不足と長雨で、夏の終わりになっても青く突っ立ったまま。実が入らないために穂が上を向いたままの「青立ち」よばれる状態に陥っていた。

ヤマセの吹き込む田んぼに立って、まだ幼かったころに聞いた話がよみがえったのだろうか。代々米づくりを続けてきた、堀江正一さんという大正生まれの古老が口にした言葉が忘れられない。「うちの親父は、昭和9年の冷害の年は、ひと夏、綿入れを着て過ごしたといってたよ」
昭和9年、その前は大正2年、その前は明治39年。農家は収量の増加をめざしながら、代々家の中で、凶作の記憶を語り継いできているのだ。

この年の宮城県の米の作況指数は「37」。青森は「28」、岩手は「30」。例年100前後で推移し、豊作の年には100をこえることを考えれば、未曾有の不作だったことがわかる。米不足のために、政府は大々的な米の輸入に踏み切った。
たったひと夏の気候変動のために、私たちの食卓は危機に直面するんだ…。飽食だとかグルメだとか、そんな言葉を頭から信じ込んでいたわけではないけれど、いまの時代、食糧は何とかなるだろうとどこかで高をくくっていた私は、不意を突かれうろたえた。毎日の食は、私たちの想像以上にあやうい生産と供給のうえに成り立っている。このときから私は、生産する人の側に寄って食べものを考えるようになった。

郷土史をひもとけば、東北の中では雪が少なく、そうきびしい気候風土ともいえない仙台でさえ、度重なる冷害に苦しめられてきている。江戸時代の中期から後期にかけては、大量の餓死者を生むほどに悲惨だった。
中でも、宝暦5年(1775)、天明3年(1783)は大飢饉の年として記録に残されている。領内各地から食べものを求めて難民が仙台城下に集まり、河原に藩のお救い小屋を立てて粥をほどこしたものの、行き倒れる人々が日に150人も出たという宝暦の飢饉。5月から9月までの長雨に加え、浅間山噴火の火山灰が遠く運ばれ降り積もったという天明の飢饉。飢饉のあとつくられた城下絵図では武家屋敷の氏名が赤文字で記されていて、これはおそらく主が餓死して空き家となったためだ。
人々が埋葬された河原も、弔われた叢塚も、私がふだん行き来する通りのすぐ近くにある。この場所で飢えて命を落とした人たちがいたのだ。200年前の出来事も、同じようにヤマセがもたらしたものだ。

霧雨の続く8月中旬、旧知の農家の人たちと山形に研修旅行に出かけた。西に向かい奥羽山脈を超えたら、一転して青空が広がっている。久しぶりに見上げる晴れやかな空に、胸の奥にまで日差しが入り込む気がした。広大な田んぼでは稲が重たく穂を下げ、心なしか青色から黄味ががった実りの色に移り始めたようにも見える。東北といっても一様ではない。太平洋側が雨天続きで不作でも、日本海側は天気に恵まれ豊作となることも少なくない。
「うらやましいなあ、もう稲刈りできんでねえか」「俺らはどうなんだべ」「大体雨続きで、薬も撒けないしな」「稲刈りは10日は遅れるなあ」
ため息に近いような言葉がつぎつぎと口についで出た。

手を尽くしきっても、あとは天気しだい。農家は天を仰ぐだけだ。岩手に生きた宮澤賢治が「サムサノナツハオロオロアルキ」と書いたその気持ちがわかるような気がする。

長雨のあと仙台では30度を超す日が数日あったけれど、また雨が降ったりやんだりぐずぐずとした天気に戻った。今日の最高気温は23度、明日は17度。気温が戻るといい。農家も稲も雨と寒さに耐えている。