出雲幸五郎さんが9月7日、86歳で亡くなられた。といっても、仙台に暮らす人以外で出雲さんを知る人はそう多くはないだろう。
文具店「幸洋堂」の店主。店のある荒町(あらまち)のまちづくり仕掛人。荒町商店街振興組合の初代理事長。この30年、まちのために休むことなく東奔西走した人。私は出雲さんというと、白髪、メガネに赤いエプロンをつけて、いつもせわしなく動き回る姿が思い浮かぶ。街中で、自転車をこぎ配達に急ぐ姿もよく見かけた。
出雲さんが商売の枠を超えて動き出したのは、ちょうど日本中のあちこちのまちやむらで地域づくり、まちづくりが活発になった時期でもあったから、仙台では「元祖まちづくり仕掛人」といわれたりすることもある。でも、出雲さんは地域を冷静に眺めて事を企てる専門家でも、ましてや評論家では決してなかった。額に汗してみずから行動を起こした人。仙台で、ここまでやった人はそうはいない。すべて、じぶんの生まれ育った愛するまちを少しでもよくしたい一心からだった。
いま振り返ると、荒町の魅力をよくわかっていたなと思う。人は案外、足元のことは見えないものだ。
荒町は仙台駅から地下鉄で一駅ほど南にある商店街で、間口の狭い個人商店が連なり、大学が近くマンションやアパートも多いから、小さな食堂から日曜雑貨、クリーニングまで、まあ、何でもそろうちょっと雑然とした雰囲気の通りだ。でも歴史は古くて、江戸時代は奥州街道だったこの通りを参勤交代が通ったし、もともと荒町は伊達家に付き従ってきた由緒ある御譜代町(ごふだいまち)の一つ。
まちを歩くと、ちまちました商店の奥には、昌伝庵、仏眼寺…といった古刹が広大な境内を誇り、中でも通りの中央にある毘沙門堂は子育ての神様として江戸時代から信仰を集め、大相撲の興行が行われてにぎわいの中心でもあった。
この毘沙門堂に目をつけた出雲さんは、1986年、プロになってまだ数年だった仙台フィルハーモニー管弦楽団を8月1日のお祭りによんで「第1回星空コンサート」を開いた。何でも値切りに値切ったらしい。何しろ野外だから、ヴァイオリニストをはじめ弦楽器の団員はヒヤヒヤ。最初のフレーズを弾いたとたん雨がぽつりぽつりと降ってきて中止になったこともあったと聞く。私も「チケット買ってよ」といわれ何度か聴きに出かけた。まちの人たちがうちわ片手にサンダル履きで集まり、がやがやした中で演奏が始まるのだけれど、曲が進み夕闇が迫ってくると境内は何ともいえない一体感に包まれていくのだった。コンサートがはねると、お祭りの屋台でヴァイオリンケースを持った団員の人たちがたこ焼きを買い、まちの人とおしゃべりする。オーケストラを聴く敷居をグンと下げたまま、星空コンサートは20年続いた。
同じころ、出雲さんは町内の若手経営者といっしょに、町名改正反対運動に乗り出した。1970年から始まった市内の町名改正で最後に残ったのが、この周辺の町々だったのだ。荒町、南鍛冶町、穀町、南材木町、三百人町、五十人町、六十人町…江戸時代から続く町名を守り抜こうと、出雲さんは町内でフォーラムを開き、署名活動を展開し、ねばり強い交渉を続けて、ついに仙台市側が変更を断念した。かつての城下町でまとまったエリアとして町名が残っているのはここしかない。ちょうどバブルが始まろうとしていた時期に、何が守るべきものかを出雲さんはわかっていたんだなあ、といまあらためて思う。「やるときはやれ、力を出せ」と教えられた気がする。
そしてこの30年、まちを通る人たちに話題を提供してくれていたのが、店の前のキャッチコピー。大きな筆文字で「今日という日は本日限」とか「そのうちって、いつの事」とか「恋はザルですくった水の如く」とか「さわやかな女」とか…。ピンとくるものも「?」というものもいろいろだったけれど、ちょうど店の前で信号待ちのバスが停まるから、通勤や通学で楽しみにしていた人もいたと思う。何しろ「オレは荒町の糸井重里」と豪語しコピー集までつくる始末。私も1冊買わされた。けっこう自信家だったよね。
本音でつづる文章もうまくて、発行していた「こうごろう新聞」は、『熱血こうごろう』『こうごろう新聞 仙台荒町奮戦記』としてまとめられ、秋田の無明舎から出版されている。
思ったことはずばりずばりと口にする人だったから、よくまわりとケンカもした。でも、がーっと押し切るような力があったからこそ、小さな商店街の荒町でこれだけのことがやれたのだろう。大震災では沿岸部にあった文具店の倉庫が流され、その直前にはガンもわずらった。でも、屈することなくいいたいことはいい続け、まちづくりは最後の最後までやめなかった。
目の前のことは、けっこう簡単に歴史になってしまう。お通夜に参列したら、この30年仙台でいっしょにやってきたなつかしい人たちがいて、昔話になった。出雲さんがやってきたことを私はすぐそばで見てきたつもりだけれど、こうやって同時代で見続けてきた人たちが消えたら、もう何にもわからなくなるのかもしれない。
昨晩、店の前を通ったら、看板がはずされシャッターが下りていて、大きな筆文字の張り紙がしてあった。「幸五郎さん頑張ったね秋日和」「幸五郎さんお別れの日はやっと晴れ」だれが書いたんだろう。鼻の奥がツンと熱くなる。
荒町は、一昨年、新たな地下鉄が開業してからというものバスの本数が減り、歩く人も減り、シャッターを下ろす店が増えてきた。いま、こうしてまちをかき回し渦をつくってきたうるさい人も消えて、一時代が終わったのを目の当たりにしている気がする。