仙台ネイティブのつぶやき(47)水に揺れる灯籠

西大立目祥子

 台風がきたら灯籠流しは中止だよ、と聞いていたのだけれど、幸い台風は日本海に抜け風もやんだ。オレンジ色の夕焼け空を背中に感じながら、仙台の街中から海に向かって車を走らせる。20分も走れば海。向かうのは仙台東端をなだらかなに縁取る海岸にあった荒浜という集落だ。

 “あった”と書いたのは、荒浜は東日本大震災の大津波で流され、もう住むことのできない場所になったから。震災後の8年半の間に、集落の人たちは慣れ親しんだ土地を離れ、少し内陸に家を立てたり借りたり災害公営住宅に入ったりして生活を再建している。

 それでも、荒浜の人たちからは、あきらめてこの地を去るというような後退とは一線を画するような頑張りを見せつけられてきた。漁師さんはいち早く自力で作業小屋を立てて漁を再開したし、訪れる人と交流し活動する拠点を自前でつくり上げた人もいれば、80歳を過ぎて、大きな被害を受けたこの地を写真に撮り続け砂浜で写真展を開く人もいる。震災間もないころ、仮設住宅の集会所を訪ねて入居している人たちから話を聞く活動を手伝ったときも、率先して参加し大きな声で話を聞かせてくれるのは荒浜の人たちだった。そのたびに、負けん気の強い浜っ子気質が火花を散らしているように感じたものだ。

 その荒浜で夜にお盆の灯籠流しが行われるという。震災後も休まず夕方の明るいうちに開催してきた灯篭流しが今年はいよいよかつてのように、集落を流れる貞山堀(ていざんぼり)で行われることになったのだった。

 住宅地を抜け荒浜に近づくと道路の両側には田んぼが広がる。いまの季節、少しずつ実が入ってくる稲は薄く黄色に染まり始めているように見え、農業が再開されていることが実感できるというのに、なんとなくひりひりするような痛いような感覚になるのはなぜなんだろう。目の裏に、がれきが散乱していた風景がよみがえってくるからだろうか。と、道路が急にせり上がってきて、いままで交差していた県道の上を高架で超えた。びっくり。来るたび、風景がつぎつぎと変わる。津波被害の跡地はまだまだ普請中なのだ。

 着くとあたりが暗くなり始めた。荒浜の人たちが屋上に逃げて命を拾い、いまは震災遺構として使われている旧荒浜小学校の校庭に車をとめて貞山掘に向かうと、知り合いに会って、声をかけたり声をかけられたり。地域のお盆はこういうものだったのかなぁと思う。灯籠流しで里帰りをした幼なじみに会って立ち話をしたりしたんだろう。

 闇に包まれていく堀には中に明かりを納めた色とりどりの灯篭が浮かんでいて、暗くなるほどその色が鮮やかに浮かび上がってくる。堀のわきのテントの中では、荒浜に暮らしていた年配の女性たちが休むことなく御詠歌を唱和している。荒浜では震災で200人近い人が命を落とした。残されたほとんどの人たちが、家族や親族や友人、長年つきあいのあった近所の人を失っているはずだ。暗闇の中に浮かび上がる灯篭を眺めていると、亡くなった人とつながっているという思いが強まってくる。

 ぼうっと灯篭を眺めている間にも、いろんな人に声をかけられる。いまいっしょに聞き書きの活動をしている若い友人、震災遺構で働くスタッフ、荒浜のために奔走する知人、漁師の娘さん‥あらためて考えると震災のあとに知り合いになった人が多い。こうしたつながりに、私の遠い日の荒浜の記憶が折り重なる。

 それは、まだ就学前の夏の思い出だ。荒浜の漁師さんの家の一間を借りて、父や母、弟、叔父や叔母、従兄弟たちと1週間ほどを過ごしたことがあった。なぜか子どものころは私も弟も病気ばかりしていて、見るに見かねた祖母が潮風にあたって海水浴でもすれば少しは丈夫になるだろうと、知人のつてを頼んで逗留させてくれる家を探したのだと思う。いまでいう民泊だ。仙台で海水浴場といえば荒浜なのだった。

 立ち代わり叔父叔母がやってきたのは、借りた部屋がせいぜい6畳くらいだったからだろう。前廊下にはプロパンのガスボンベや鍋が重なっていた記憶があるので、鍋釜や布団まで持ち込んだのかもしれない。水着に着替えて庭に飛び出すと、そこはもう海岸と同じように砂地で、松林をくぐりぬければすぐ海だった。たしか4つ5つ年上の男の子と私と同じ歳くらいの姉妹がいて、3人とも浜の子らしくよく日焼けしてたくましい体つきだった。それにくらべて私は…。幼いながら、白くてひょろひょろした体が恥ずかしかったことをはっきりと覚えている。

 そのころの荒浜はまだ漁も行われていて、砂浜には舳先のとがった伝統的な木造船が並んでいて、早朝、漁師さんたちが乗り込んで沖に定置網を引き上げに沖に向かうのだった。漁のようすがいまでも目に浮かぶのは、父が撮った写真が残っていたからかもしれない。海は波が荒かったけれど、子どもの腰くらいまでの深さのところまで入って足先を砂に潜らせると、カチンとぶつかるものがあって拾い上げると二枚貝だった。おもしろいように採れて、廊下の隅においたバケツいっぱいになった。あの大量の貝はおつゆにでもして食べたのだろうか。

 泊まっていた漁師さんの家の主はよく焼けた小太りの背の低いおじいさんで、近所の人たちは「爺やおんつぁん」とよんでいた。いよいよ引き上げるという日、家の人たちと座敷に座って、たぶんスイカか何かをごちそうになっていたときだと思う。英語の教師をしていた叔父が、壁に掛けてある表彰状のようなものを指差したずねたのはそれが英語で書かれていたからだろう。爺やおんつぁんが、進駐している米兵が海でおぼれかかったとき泳いで助け、そのお礼にもらったのだと答え、ここの海は波が荒くて押し戻されるから浜に対して斜めに向かってこないと戻れないのだと説明した。私は小太りのおじいさんが見事に抜き手を切ってアメリカの兵隊さんを助けるようすを想像してほれぼれした。

 後年、荒浜の民俗誌を読んでいて「爺や丸」という船があったことを知り、きっとあのおじいさんの船だ、と膝を打った。さらに震災後、地元の人たちに聞き書きをして、あの大量の貝はアサリではなく、「ナミノコ」だと教えられた。「爺やおんつぁん」という名前を出して、「なんであんたそんなこと知ってるんだ」と驚かれたこともある。その家は、亡くなったり荒浜を離れたりしてすでに震災前になかったことも教えられた。50年以上の時間を経て、子ども時代の荒浜の記憶に新しい記憶が上書きされていくおもしろさと不思議さ。本編はとうに終わっていたかと思っていたら、いつまでも続編が続く。

 灯籠はゆらゆらと水に揺れている。家族連れも多く、あちらこちらからあいさつの声が聞こえる。静かに堀を眺める人もいる。7時20分を過ぎたころ、マイクで「今日はありがとうございます」とあいさつがあった。高山君の声だ。彼は荒浜出身ではないのに、荒浜への思い厚くここで活動を続けていまは震災遺構で働いている。「荒浜はもうだれも住めない場所になってしまったけれど、こうやって集うことはできます」。彼はいつもまっすぐなことばを繰り出してくる。途中で声が変わり、「これから花火を上げます。集まってくれた人たちのためにどうしても上げたくて」というこれまたまっすぐなアナウンス。震災後、この地に思いを持つ若い人がつぎつぎと集まって、この土地と人をつなぐ活動を続けている。だれもが本気で真剣だ。

 やがて数発の花火が上がり、胸の中にあたたかいものがわっと広がった。ほんの一瞬の花火。でも集う人たちがこんなにも同じ思いで見上げる花火はそうないかもしれない。

 負けん気の荒浜の人たちは空っぽになったこの土地から思い出を引き出そうとし、まっすぐなよそ者はそこに新しい物語を描こうとしている。どちらも、きっと、人はそう簡単に住んでいる場所を変えられない、と信じているのだ。宙づりになったこの土地がどうなっていくのかを、私もだらだらと続編を加えながら見届けたい。