仙台ネイティブのつぶやき(48 )猫をかかえて走る

西大立目祥子

 この20年ほど“猫まみれ”といっていいような生活を送ってきた。そもそもは家に迷い込んできたメスの野良の面倒をみたのがきっかけなのだけれど、そのうち一人暮らしになった母も猫を飼うようになり、そこにも野良の子猫が居着いたりして、一気に猫が身辺に増えていった。これまで世話をした猫の数は、20匹は下らない。いつか「私の上を通り過ぎて行った猫たち」とか…そんなタイトルで一匹一匹の思い出を書いてみたい。同じ猫族とはいっても、性格やふるまいはびっくりするほど違い、その生涯もそれぞれに完結していると感じさせられてきたから。

 生きものである以上、病気もすればケガもする。若くして大病するのもいれば、長患いに苦しむのもいる。もとは出入り自由にしていたので、大ケガをしてやっとの思いで帰ってくるのもいた。
 そのたびに、動物病院のお世話になってきた。近所の病院、ちょっと離れたところ、救急病院までいろいろ。動物のお医者さんもまたさまざまだ。ふだん私たちが「どこかいい歯医者さん知らない?」と聞いて行ってみるとそうでもないと感じることがあるように、病院選びは飼い主との相性が決め手だ。相性をもっと具体的にいえば、ことばを持たない犬や猫をどうとらえ病気にどう対応するか、それは動物との距離感をどのあたりに求めるかということになるだろうか。

 たとえば、私は猫にとって病院に行くことはストレス以外の何物でもないと考えているので、見立ても診察も早く病状を簡潔に説明してくれる先生が一番と思っているのだけれど、そんな信頼を寄せる先生のことを知人が「あの先生の診察は早く過ぎて、ゆっくり話をしてくれない」と評したことがあった。一方で、私は、長患いの猫を連れていくたび「この子も頑張っていますよ」という先生に、気づかいに違いないと知りながら、欲しいのはドクターとしての見地であって頑張っているのは私だってわかってますよと、いつも胸の中でぶつぶついっていた。こうしたやさしいひとことに救われる飼い主もいるだろう。何事もそうだけれど、じぶんとウマの合う人を見つけるのは難しい。

 動物病院に通い出したころは、人の治療とどこも違わない扱いにびっくりすることばかりだった。まず、診察台はスタンド式のアイロン台みたいな格好なのだけれど、猫を乗せるとすぐに体重がデジタル表示される。鼻水とか熱でウィルス性の病気が疑われるときは、私たちがインフルエンザの判定のとき使うのとまるで同じキットで陽性か陰性かが判断される。内蔵の病気があやしいとなればすぐに前足の毛を剃って採血され、10数分待つうちに結果が出て「肝臓と膵臓の数値が正常範囲の2倍です。今日から注射に3日は通ってください。飲み薬は5日分出しますね」という具合。目の前の猫よりデータを注視するってどうなのかしら…と疑問を感じたものだ。

 最初の診察のとき、私に問診を重ねながら触診を基本に観察する先生はやはり信頼がおける。あるとき、急に食欲が落ち込んだ1匹をある病院に持ち込んだことがあった。先生は診察台に猫を乗せ、ぎゅっと背中をつかむと「ずいぶん脱水しているね」という。肉の戻りが遅ければ脱水の証なのだ。さらにおなかの柔らかいところをあちこち押しながら「どこも腫れたり固くなったりしていないなあ」といい肛門に体温計を差し込んで平熱であることを確かめる。そうこうするうち「動きが鈍いわけではない」という私の一言にピンときたのか、「もしかすると…」と口を大きく開けさせた。口内が真っ赤に腫れ上がっていた。診断は口内炎。ひどい炎症でごはんが食べられなかったのだ。
 いま私自身が年に一度、検査のために通う総合病院では、医師は私の体を触診することなく画像と血液検査の結果を見るだけだから、動物病院の方が本来の診察が残っているといえるかもしれない。

 20年の猫歴なので、容体が急変してもそうおたおたすることはなくなったけれど、初心者のころは迷ったり、これでいいのかと自問したりの連続だった。ある日、後ろ足を痛めて帰ってきたのがいた。痛めた足は縮めたままで、横になるのにもつらそうに鳴く。病院でレントゲンをとると、大腿骨がきれいに折れていた。「骨を継ぐ外科手術は9万円です」と先生はいとも簡単にいう。ほおっておいてもいずれくっつくというので、迷ったあげく「今月は車検もあって…」などとつい本音を口に出して連れ帰った。すると足は1週間もしないうちに治ってしまった。犬と猫をくらべると、同程度のケガなら猫の方がはるかに治癒力が高いらしい。

 糖尿病の猫に数年の間、インスリンの注射を打っていたこともある。最初は1日1回の注射だったのだけれど、どうも効果が上がらず、先生に「1日2回、頑張れますか?」とたずねられ「はい」と返事をした。注射の回数を増やすと、猫は持ち直した。何もわからない猫にこんなことしていいのか、これはもしかすると私の満足なのではないのかと迷いながら、病院に薬と注射針を受け取りに通った。猫は糖尿病ならではのものすごい食欲をみせながら、しまいにはやせほそり亡くなった。

 猫は家族か、と問われれば、私にはそこまではいい切れない。でも一つ屋根の下に暮らす生きもの同士として、互いにその存在を認め合っているという実感は強くある。猫も私と同じように、じぶんの意思を持ち、じぶんの思うように行動し、おなかがすけば食事を欲し、風を感じ空を眺めているから。
 だから、そんな存在が弱り命の危険がある、となれば反射的に病院に車を走らせてしまう。そして病院とは、病気を治すところであり先生もスタッフも治すために最善を尽くす人たちなのだ。連れて行けば、ただちに治療が始まる。「延命治療はしません、もういいです」と断らない限り、そして病院に行くのをやめるという決断をしない限り、治療は続く。これは、じぶんと家族のこれからに押し寄せてくる病気や治療の予行演習かもしれない。弱っていく親しい存在を、受け入れるのには強い意思がいる。

 いま一番の信頼を寄せるK先生とは、余計な検査と延命治療はしない、と約束している。そうであっても、今晩もし誰かが急に呼吸がおかしくなったりしたら、私は外が土砂降りでも猫をかかえて走るだろう。