仙台ネイティブのつぶやき(65)寝ても覚めてもお湯のこと

西大立目祥子

「湯守」とよばれる人たちがいる。温泉宿の源泉を守る人たちだ。小さな宿の場合、ほとんど宿の主人が湯守をかねている。
 温泉旅館を訪れる側は、宿に着くと休息もそこそこに浴室へと急ぎ、湯船に満々とたたえられた湯の中にからだを沈め、「あ〜いいお湯だ」と目を閉じため息をもらしてお湯を堪能する。湯口からとうとうと流れ出るお湯を見て、ちょっと知ったかぶりで「やっぱ源泉かけ流しは違うねぇ」などと、口に出したりもする。

 でも、この源泉というもの。これはかなりの苦労を湯守に強いるものらしい。朝目覚めてから夜寝床に潜り込むまで、問題なく湯が湧き出ているか気に病み、ときには深夜に源泉が止まる夢を見て、がばっと起き上がることもあるのだそうだ。たしかに、旅館を営むうえでの生命線が源泉なのだから、源泉がストップなんてことになったら‥それは恐ろしい事態だ。

 宮城県北に位置する大崎市鳴子温泉。ここには、奥羽山脈のふところに向かって、手前から、川渡(かわたび)温泉、東鳴子温泉、鳴子温泉、中山平温泉、鬼首温泉と、5地域の温泉があり、合わせて鳴子温泉郷とよばれている。鳴子温泉郷内の源泉数は約400本。温泉地によっては、1つの源泉を何軒もの旅館が共同で使うのもめずらしくないらしいが、鳴子温泉郷の旅館はほとんどが自家源泉を持っている。中には泉質の異なる数本の源泉を維持している旅館もある。地域ごとに泉質は大きく異なり、さらにもっと細かくみていけば、隣り合う旅館であっても色も温度も泉質も違ったお湯が湧き出ているのだ。

 長年仕事で通い、ついでにひと風呂浴び、旅館のご主人たちや源泉の調査や調整をする人の話を聞くうち、源泉というのはそう生易しいものじゃないということは私にもぼんやりとわかってきた。長い時間をかけ山や川から染み込んだ水が、地中奥深いところで地熱にぐらぐらと沸かされたのが源泉なのだから、そこには荒っぽい野性がついてまわる。人智は及ばず、取り扱いをあやまればしっぺ返しを食う、どこか恐ろしいもののようにも感じる。湯船に入ったお湯はおとなしく穏やかだけれど、壁一枚隔てた屋外の枡に注ぎ込む源泉は、 100メートルも200メートルも深い地中の状態を映し出し、日々色を変え、量を変え、あるときは止まる。

 源泉とのつきあいを「放蕩息子を抱えているようなもの」と表現する旅館のご主人もいる。思うようにならない源泉にいらだったり、振り回されたりするからだろう。人の性格が異なるように、源泉の性質も千差万別。温度や泉質はもちろん違っているし、素直な良い子もいれば、しょっちゅう学校から親の呼び出しがかかるような破天荒なのまで、実にいろいろなのだ。

 友人で、川渡温泉で「山ふところの宿みやま」を営む板垣幸寿さんの源泉は、けっこうひんぱんに主を悩ませる。源泉の湧出口は宿から350メートルほど離れた林の中。源泉が旅館の浴室のすぐそばにあるとは限らず、中には500メートル〜1キロもパイプを敷設して湯を運ぶ旅館もある。離れていれば、夏はほどよく冷めていいのだけれど、冬は冷めすぎて湯船に流す前にヒーターで温めなければならない。そして、やっかいなのが「スケル」だ。スケルといってもわかる人はほとんどいないだろうけれど、湯の花のようなもので、このスケルがパイプに付着し詰まらせる。放っておけば湯量が減りしまいには止まってしまうので、定期的に除去作業をしなければならない。一昨年だったか、板垣さんは源泉が突然止まるという事態に見舞われ、ひと月旅館を休んで復旧に奔走していた。さすがに憔悴しきった表情だった。

 一度、スケルの除去作業を見学させてもらったことがある。湯量が少なくなったことの原因を探るための作業だったのだけれど、源泉に深く下ろしている長いホースを引き上げると、内側にも外側にも黒く粘り気のある真っ黒いスケルがべったりと張り付いていた。除去作業をする板垣さんは泥まみれ。地中深いところで起きるトラブルに対応することの大変さを目の当たりにした。このときはホースに破れ目が見つかり、交換したとたん湯量は回復した。「いやあ、お湯を拝みたくなる」と板垣さん。
 このスケルも源泉によって付着量がかなり違うのだそうで、数ヶ月にいっぺん除去作業が必要な源泉もあれば、1年にいっぺんという旅館もあり、一方でほとんど付着しないために除去はしたことがない、という旅館主もいる。したがってトラブルの多寡もまた、源泉それぞれ。

 板垣さんは「朝起きるとまず源泉を見る」という。何か異変はないか、じっくりと観察するらしい。一番怖いのは地震だともいう。確かに地熱は地球内部から地表に向かって動いているというから、プレートが動けば、地下水の温められ方も大きな影響を受けるだろう。「湯量が減っていないか、増えていないか、にごりはないか。そのあとにごりは改善されていくか。増えたら増えたで、そのあとがこわい」。「1日に3度は必ず見る」という旅館主もいる。お湯のわずかな差異から、現れてくる変化の振幅がどれだけのものかを探ろうとしているのだろう。自然につきあうというのは、こんなふうに大きな力で動くものを恐れつつ、そこに起きてくる小さな変化の兆しを感知するために観察することが基本なのだと教えられる。

 こんな湯守たちの苦労を知ると、お湯につかるのもまた違った意味合いを帯びる気がする。
 地中のエネルギーを直接浴びるというのか、想造もつかないような水と熱の織りなす地球の営みとダイレクトに対話するというのか‥。

 そしてもう一つ、板垣さんのスケル除去作業には、源泉管理のプロの千葉さんという人がつきっきりだったことも記しておきたい。源泉に問題が起きたときにいつも駆けつけてくれる技術者。こうした地域に根ざしたプロが継承されないと、私たちはのんびり安心して温泉にひたるなんてできなくなるかもしれない。