仙台ネイティブのつぶやき(73)浜の暮らしを照らす人

西大立目祥子

 東日本大震災のあと2年が過ぎたころだったろうか、津波で家を失い避難している人たちのもとに、ライター3人くらいがチームをつくり話を聞きに出かける活動に参加していたことがある。避難所にしつらえてある集会所に参加者14、5人が集まってきたところで、主催者が地域のなつかしい写真をスクリーンに映したりたりして、場が和んでくると3〜4人を相手にメモをとりながら話に耳を傾けた。

 そのころは被災した集落ごとに避難所が営まれていることが多く、同じようにプログラムを進行しても、やけに反応がいいところがあれば静かなところもあるという具合で、その雰囲気の違いが被災前の集落の暮らしぶりを教えてくれているようだった。

 いつも打てば響くように反応し、誰もが大きな声でしゃべりたがり、がやがやとあっちこっちで声が上がりちょっとうるさいくらい。それが、荒浜の人たちが集まる集会所だった。「荒浜」というのは江戸時代から漁業を生業としてきた集落で、数が少なくなったとはいえ、いまも日焼けした漁師たちが毎日沖に船を出し漁を続けている。遠慮のない荒っぽいしゃべりっぷりの中に浜っ子の気風が見え、農業で暮らしを立ててきた他の集落とは違う生活の営みがあると気づかされた。

 ちなみにここは仙台唯一の海水浴場でもあり、多くの仙台市民が夏には海で泳いだ記憶を持つ浜だ。私も小さいころから幾度となく遊んだ。だから、あの大地震と大津波に襲われた3月11日の夜、恐ろしい被害がつぎつぎと流れてくるラジオから「荒浜に200から300の遺体」と聞こえてきたときには、あの浜にいったい何が起こったのか、浜一つがつぶれてしまったのかと、誰もが震え上がった。後日、それは誤報だったと知らされたのだけれど、180人を超える人たちが命を落とした。そして、800世帯2600人が暮らした浜は、災害危険区域に指定され、もう誰も住めないエリアになった。

 がやがやと騒がしい集まりの中に、ひときわよく通る太い声で話をするおばあさんがいて目を引いた。よくしゃべり、よく笑い、まわりをリードするような豪快な話しぶりで存在感を放っている。佐藤はついさん。昭和2年、荒浜の漁師の家に生まれ、荒浜で所帯を持ち息子を育て、この大津波で家はまるごと流されたという。この地域では、船を持って漁をすることを「船を掛ける」というのだけれど、はついさんの生家も辰丸という船を掛け、荒浜の前浜で定置網漁を行っていたのだそうだ。仙台なまりでポンポン繰り出される浜の話にすっかり引き込まれて、私はそのあと一人ではついさんのもとを訪ね話を聞くことにした。

 荒浜の海岸は仙台湾を縁取るような砂浜の一部で、船を停泊しておける港があるわけではない。だから船を出すときも引き上げるときも大変で、浜の人たちの手助けが欠かせなかった。荒波を割るようにして沖に向かっていく船は舳先がとがった独特のかたちをしていて、「カッコ船」とよばれた。このカッコ船を、たっぷりと魚の油を塗ったバンギという丸太の上に乗せ、いわばコロの上をすべらせるようにして海へと押し出す。戻ってくるときは、波打ち際で船を回転させ、バックで車庫入れするように船を浜へと引き上げた。

 ここで多くは紹介できないけれど、その話の一部と書くと…
「カッコ船は、先とがってて、漕いで海に出ていかないといけないから、10人くらい乗ってんだね。櫂(かい)は片側に3人。櫂はいまの川舟と同じさ、ボート漕ぐみてえなの。艫(とも・船尾)のところにいる櫓漕ぎっていうのは立って。櫓漕ぎは普通の人ではねえんだ。ベテランの人。普段は父親か父親のおんつぁん(おじさん)だのだった。舳先にタカノリといって、運転する人あんのよ。船をこっち向けたりあっち向けたり。辰丸のタカノリは決まってたな、リキノスケじんつぁん。うんとしっかりした人だった。私うんと可愛がらったんだ」
 …と、こんな具合に漁の細部がいきいきと描き出されていった。

 そして、「おまかない」。荒浜の人たちが漁の話をしてくれるたび口にするおまかないとは、手伝いのお礼に手渡す分け魚のことだ。
「大漁のときは、旗上げて戻ってくるから浜にいてわかんのよ。捕れねときは上げないよ。
 船引き上げるときはね、船は動力じゃねえから、みんなに上げんの手伝ってもらったの。出ないと砂浜だから上げられんねえんだもの。魚もらえっからみな来るさ。フゴ(竹のカゴ)持って手伝いにくるんだもの。傷のついた魚はみな、「おまかない」さ。こっちに上げたり、そっちに上げたり。おまかないっていうのは、毎日食べてること。魚だの売らんねものは「おまかねだわ」って。野菜も傷ついたら「おまかないにすっぺわ」って。うちで食べることをいったのよ。だから、不漁だと気の毒だから飴こ買っておいたって。ありがとうっていうのに」
 沖から旗を上げて戻ってくる船が見えれば、誰もが手伝いに行った。誰もが手伝いに行けたのだ。それは生活に困窮する人たちを脱落させない共同体の仕組みとしても機能していた。

 漁の細部といっしょに、はついさんの心情も語られた。
「私、長女だったから、なんだか責任感じてたの。魚捕れねと、親父がうんとかわいそうなんだよね。海さ入ってね、捕ってきてあげてえくらいだったの」
 はついさんは父親思いの娘だった。というより父の生き方にじぶんを投影する「父の娘」だったのだと思う。
「女は船さ乗せられねっちゃ。網にはさわれっけど、上げられなかったの、女は」というのに。
 話が戦争に及ぶと、はついさんは「私は戦争に行きたかったの」と口にすることが何度もあった。従軍看護婦をめざした一時期もあったともいっていた。ひとことでいえば、肝が座っていて男まさり。男と肩を並べて生き、父親の力になろうと奮闘する娘にとって、時代はどれほど生きにくかったのだろうか。小さな浜に、こういう気概で生きようとする女性がいたことに眼を見張るような思いにさせられるし、私がはついさんの話を聞こうと思ったのも、その抗うような心持ちに心惹かれたからなのかもしれない。

 この日曜日、はついさんと4、5年ぶりに会う機会があった。仙台市が東日本大震災の経験を伝えようとつくった「3・11仙台メモリアル交流館」という施設での催しでのことで、テーマは「荒浜の暮らし」。会場に集まった荒浜の人たちは、やっぱり声が大きく、遠慮が少なく、がやがやとにぎやかで愉快だった。その中にはついさんもいて、映された昭和30年代の小学校の給食風景を見て、「なんだい、あれ、おらいの息子だっちゃ」と話し笑いをとっていた。95歳。どんな時代でもどんな環境でも、じぶんの意思を持って生きる女の人はいた。仙台の小さな浜の暮らしを想像するとき、はついさんは私にとって暗闇を照らしてくれる明かりのような存在になっている。