ついに、母をグループホームに送り出した。どこにいても母のことを気にしなければならないような生活を送るようになって15年くらい経っただろうか。2020年の新年に転倒して救急車を呼んで以来、夜に一人で寝せるのが心配になって週3日泊まる生活が続いていた。このままあと何年かは続けられそうな気もしていたのだけれど、8月の二人そろってのコロナ感染という経験をしたら、何だかどっと疲れが出た。いや、疲れていたことに気がついたというべきか…。もうそんなに頑張らなくていいよ、と弟にも連れ合いにもいわれるたび、いやいやまだ大丈夫と胸の内でつぶやいていたのだったが、秋風が吹くころになったら無理な決心でもなく、もう私がずっと抱えていくのは難しいかなと、思えるようになっていた。
躊躇していたのは、一度出たらたぶんこの家に生きて帰ってくることはないだろう、と考えていたからだ。外出とか外泊とか、もとは気軽にできたことが、コロナ以後はかなわなくなった。会うことすら難しくなるだろう。60年以上も暮らし続けた家を離れる。判断できない本人に代わって、それをこの私が決心するということの重さにたじろいだ。
それに「入所」ということばもいやだった。生活の匂いのない、無味乾燥ながらんとした施設に行くみたい。刑務所じゃあるまいし。
幸い、これまでお世話になったケアマネージャーさんともつながりが保てそうないいグループホームが見つかった。私の家から歩いて10分。何となく近くに母が引っ越してくるような感覚が持てなくもない。
ヘルパーさんを統括していたエミコさんには、「すっかり元気になっての入所なんだから、うまくやっていけると思いますよ。弱って入るわけじゃないんだから、本人のためにはいまがいいときですよ」と励まされた。この人と話しているといつも頭のモヤモヤが整理整頓されていく。そうだ、何といっても転倒からもコロナからも復活をとげた94歳なのだ。「きっとうまくやっていける」というひとことに、私の中のうしろめたいようなたじろぐような気持ちが薄れ、母の前途を祝し送り出そうと思い立った。
10年以上もお世話になったケアマネージャーさん、ヘルパーさん、いつも気づかって訪問してくれた民生委員さん、従姉妹や叔母たちに、これまでのお礼をこめて紅白のお餅を引くことにした。この餅、近所の藩政時代創業のお菓子さんのもので日露戦争に勝利した記念につくったとかで、「全勝餅」というめでたい名前がついている。いわくはどうあれ、出立にはふさわしい。そのほか、母が5、6年前まで熱心につくっていた刺し子のふきん2枚、友だちにたのんで焼いてもらったシュトーレンを用意して、母の入居前日にはケアマネさんやヘルパーさんに集まってもらって壮行会を開くことにした。壮行会といったって、いまはお茶もお菓子もご法度なので、母がお茶をすすりお菓子をおいしそうにたいらげるのをみんなで笑いながら見ていただけなのだが…。
母の入居前日、この日はいろいろなサービスの最終利用日だったのだが、週一回、お昼のお弁当を届けにきてくれていたタマミさんが、「今日で最後ですね」と玄関に入ってきて母の顔を見るなり泣き出した。「私、ミヨコさんの笑顔にすごくなぐさめられてました」とお弁当を手渡してくれる。この人とは毎回わずか30秒くらいの会話なのに気持ちが通じている感じがあって、庭の花をあげて花の話をしたり、母と私がコロナに感染したあとは、遠くで暮らしている息子さんがコロナに感染後に体調を崩していて心配、と打ち明けられたりした。黄色いジャンパーを着込んで、庭に入り込んでくると気持ちがぱっと明るくなるのだった。
わずか1時間のサービス時間内に、昼食を食べさせ、トイレ介助をし、散歩にまで連れ出してくれたマチコさんには感謝しかない。いつも日報を書いているのを邪魔して、庭の木や鳥や本の話をするのが私の楽しみだった。きめ細かい対応をしてくれる人で、たとえば届けられたお弁当をそのまま母の前に出すことをせず、小さな小皿に移し替えて少しずつ食べさせてくれる。食べるのが人一倍早いことを配慮してのことだった。体温はもちろん、歩き方、食べ方の小さな変化から心情や体の変化を読み取ることに長けていて、それは母だけでなく私にまで及んだ。1年ほど前のことだったか、母に決していってはいけないようなひどいことばをぶつけたことがあって、そのことを打ち明けたら、マチコさんはこんな返し方で私の胸の中に残った黒い固い石のような異物を溶かしてくれた。「大丈夫、ショウコさんは絶対に後悔しないから。答えは全部ミヨコさんが出してくれるから」
介護保険制度がスタートしてからずっとヘルパーをやってきたというから20年のベテランなのだが、亡くなったり施設に入る人が多く、母のように10年も長く通った利用者はいないのだそうだ。「いろいろな人がいてね、怒鳴る人も多いし、愚痴ばかりこぼす人もいるの。ミヨコさんみたいに明るくて、いつもありがとうっていってくれる人なんてめったにいない。だからここに来るのは楽しみだったの」。帰るとき、母といっしょに門のところまで出ると、「ミヨコさん、元気でね」と母の手を握ったとたん、ああ泣かないつもりだったのにといいながら、目がみるみる涙であふれた。軽やかに自転車にひらりと乗って右腕を高くふる後ろ姿を、二人で見えなくなるまで見ていた。
ほどなくして、従姉妹がケーキの包みをかかえやってきて、玄関先で母を励ましてくれた。夕方訪問のヘルパーのミチコさんは、大きなカステラを焼いて持ってきてくれた。A4判くらいのビッグサイズ。いつものように散歩やお掃除をそつなくこなすと、「ほんとによく頑張ったよ」と私をねぎらってくれ、最後の最後、玄関で顔を見合わせたとたん、マチコさんと同じように泣かないつもりだったのにといいながらぼろぼろと涙をこぼした。東日本大震災の直後からだから、もう10年以上のつきあいだ。本当にありがとう。元気でね。
毎週火曜日、母は一日家にいたので、私は前の晩から泊まり、つぎつぎとやってくるヘルパーさんやお弁当配達に対応し、顔を合わせしゃべり、デイサービスの電話を受け、ばたばたと落ち着きなく過ごしていた。
それが、いまでは…だれもこない。部屋の空気も物も動かない。母の使っていた湯呑は戸棚の中に納まり、箸は使われず箸立てに立ったまま。窓辺にあった母愛用のテーブルはグループホームに運び込んだので、部屋が少し広くなった感じがする。
ああ、そうかと、いまごろになって私は気づかされている。私があらゆる介護の手続きをし、ヘルパーさんを手配し、母の面倒をみていると思っていた。ちがう。これは母のつくったコミュニティなのだった。そこに私が招かれ、そこに集う人たちと交流し楽しませてもらっていたのだ。主役は母。だから、みんな母の顔をのぞき手を握り、別れを惜しんで涙ぐんでいたのだ。
認知症であっても高齢であっても、人はその存在感でまわりに人を寄せるんだなあ。
グループホームに入居して半月。最初の一週間は眠れなかったり、夜起きてきたりが繰り返されたみたいだ。でも一昨日、電話でスタッフと話したときは、散歩をしたり車に乗せてもらって近くをドライブしたり楽しめるようになってきたようで少しほっとする。「前途を祝し」送り出した私のためにも、そこでも持ち前のパワーで暮らしを広げていってほしい。
ミヨコさん、どうぞよいお年を!