仙台ネイティブのつぶやき(82)老いのあとさき

西大立目祥子

 93歳になる叔母が、このところめっきり弱ってきた。90歳過ぎてなお一人暮らしで、毎日台所に立ち食事の仕度をしていたのに、昨秋、夜に猛烈な腰の痛みに襲われて救急搬送され、10日間の入院をしてからというもの、一気にカラダのあちこちにガタがきた感じ。70代のときに腰のすべり症とか脊柱菅狭窄症とかいろいろな問題が出てきて、相当迷いながら手術ではなく筋肉をつける選択をして何とかもちこたえていたのに、さすがに90歳を過ぎて筋力も限界なのかもしれない。

 叔母の家は標高120メートルほどの山に開かれた団地にある。てっぺんにある植物園まで週に何度かは歩いて登り野草を眺めて木々のスケッチをするのが、鍛錬をかねた楽しみだった。急坂を下って国道のわきのポストまでハガキを出しにいったり、そんなことも1年前にはできていたのに。

 この1月に1週間、お試しで老健施設に入ると、さらに症状が悪化した。「ごはんの時間に食堂に集まったって、だれもひと言も話さないんだもの。すぐにじぶんの部屋に引き上げて」退所したときの口ぶりは、めずらしく愚痴っぽかった。立ったり、座ったり、歩いたり、話したり。ひとのカラダの筋肉のひとつひとつは、日常生活の意識もしていない動作の連続で維持されているとあらためて思う。母が昨夏コロナ騒ぎで5日間入院したときも、つかまり立ちしないと立っていられないほど衰えた。筋力に余力がない年寄りは、数日じっとする生活を強いられただけで相当なダメージを受けてしまうようだ。

 家の中でもカートを押すようになり、それでも何度か転倒した。明け方にトイレに起き、寝室に戻ったもののベッドに上がれなくなったこともあった。転ぶとひとりでは起き上がれないから、そのたびにクルマで10分くらいのところに暮らす息子を呼び出したり、契約している防犯会社にブザーを押して知らせて何とか窮地を切り抜けている。「たった50センチのベッドに足が上がらない。ロックかかったみたいに動かないの」訴えとも違う独り言のようにつぶやく叔母のひと言に、意思と身体のズレ感の大きさを感じてしまう。

 階段を上がろうとしても右足が段差を越えるほどに上がらず、デイサービスから帰ってくるときは両側からの介助が必要になってきた。「じぶんでは一生懸命上げようとしているのに、ダメなのね」と叔母がいう。いつのまにか、湯のみ茶碗はマグカップに、箸はプラスチックのスプーンに変わった。足腰のような大きな筋肉だけでなく、手指の小さな筋肉も細やかな動きをとれなくなっているのだろう。叔母の衰えは、小さな筋肉の痛みが最初の徴候として始まっている。

 つかんだはずの湯呑が手のひらから滑り落ち、持ち上げた箸がテーブルに転げ、50センチの高さのベッドに座ることもできなくなったらどうなるか。胸の内のイライラややるせなさはどれほどのものか。私自身、このところ大勢の人に会うとすぐくたびれるし、やらなければならない仕事のとっかかりは遅いし、集中は続かないし、やれやれと思うことが多いが、それが動作のひとつひとつに及んだら、それは日々目の前にそそり立つ壁のように感じられることだろう。この15年、カラダは元気なのに頭がみるみる衰えていく母を見続けてきた。叔母は頭はしっかりしているのに、ここにきてカラダがいうことをきかないことに苦しんでいる。長く生きることは、頭とカラダのくい違いに耐えることを人に強いる。

 2月の頭に93歳を迎えた叔母にスケッチブックを2冊プレゼントに持っていくと、「生きているうちに2冊も使えない。1冊でいい」と返そうとしたのだけれど、3月に窓の外に椿が花を咲かせると、水彩絵具で真紅の花を描き出した。白い紙にこぼれるように描かれた椿の赤に、叔母の中にまだ燃えている生命力を見たような気がして、私の気持ちもぱっと明るくなった。日に日に増してくる春の日差しに感応したのだろうか。次に訪ねたときは、壁に画鋲でとめておいた片岡球子の富士山の年賀状を見て気持ちが動いたのか、カラフルな富士山のクレパス画が上がっていた。次の週は『片岡球子全版画』という画集を図書館から借りて持っていき、富士山の下に決まって描いている花は富士山への献花なんだってよ、と話すと、「片岡球子はいいねえ。色がすばらしい、しばらくこの本見てていいの?」とページをめくっている。訪ねたときは決まって1時間半ほどおしゃべりするのだが、特に絵の話題になると話しているうちに声にハリがみなぎってきて、私よりむしろ叔母のおしゃべりが止まらない。

 少しずつ、動かないからだと折り合いをつけていくのだろうか。創意工夫の人でもあり、じぶんを遠くから眺めることもできる人だからなのか、こんなに長くつらい思いをして生きなくたっていいといいつつ、老いる我が身をためつすがめつしているところがあって、この間は、「足元に手が届かない年寄りの靴下のはき方」を伝授してくれた。靴下を絨毯とかカーペットの床にぽんと並べ置き、靴べらを使って足を差し込み、ざらざらした床と靴下の摩擦力をうまく利用してかかとまでを納めるというやり方。「あんたも、カラダが動かなくなった人から靴下をどうやって履いているか聞いて本つくってよ」などと話し、こうなるとカラダの不自由さがどこかユーモアをおびてきて、こちらも気が少し楽になる。

 先日、まだ日が高い時間に、カートを押していて叔母はまた転倒した。仰向けにひっくり返って、さてどうしようかと考えたのだそうだ。スマホはテーブルの上。警備会社のブザーがぶら下がるベッドまでは2メートル。小一時間かけて、ベッドまで匍匐前進ならぬ背進(?)を続けブザーにタッチ、すぐにやってきた会社の人は、リビングのガラス越しにひっくり返って玄関の方向を指さしている叔母を見て「何やっているんですか?」と声をかけたというのだから、笑ってしまった。結局、すべて施錠されていたために仙台市消防局が台所の小窓を突き破って入り、またしても救急搬送。

 ねぇ、どうしたって転ぶんだから、転ばないように気をつけるより、転んだらなんとかハイハイできるように鍛錬したら? 私の提案も、知らない人が聞いたらただのおふざけのような中身になってきた。が、もちろん本気。私の義母は大正生まれの人だったが、生涯を畳で暮らし、歩けなくなってからも畳の上を這って移動しほぼ自立した生活を送った。椅子より座に暮らす方が、最後は助けとなるかもしれない。私もときどき床にごろんと横になり、からだの向きを変え、ハイハイしてみる。

 最近、叔母は話し疲れるとすぐ昼寝する。リビングに移動したベッドに横になると「ああ、寝るほど楽はなかりけり」と笑みを浮かべて目を閉じる。カーテン閉めて、という庭の向こうには、崖の斜面の上に大木の桜が枯れた姿をさらしている。樹齢はたぶん300年超え、毎年まわりの桜が終わり新緑に変わる頃に、風格ある幹のてっぺんにゆっくりと淡い色の花をつけてきた。叔母が絵のモチーフにして何度も描き「この桜と私とどっちが先に逝くか」と話していた木だ。
数年前、描いている最中に、桜は地響きを立てて、張り出していた太い幹のような枝を落とした。そしてついに枯れた。まわりは緑に燃え命があふれているのに、その木だけは異形の姿というのかツヤを失い茶色い杭のように突っ立つ。この命絶えた木のことを叔母はもう何もいわない。墓標のような太い幹を前に、私も何も聞かないでいる。