感覚の刹那と論理の間

高橋悠治

ピアノの鍵盤を道具として、指で触れた場所を耳で確かめながら進む。蝶がとまる場所を変えるように軽く触れて。見えない風や光の移るままに。長く留まった場所が重みで沈まないように、そこにいても、すぐに移れるように、でも構えはなく。

感覚はその刹那だけ、論理は、それを他の音と結ぼうとする。時間のなかで変化する音を楽譜に書けるような空間のなかの図式とみなせば、枠に入れられる形が生まれ、それを刻むあいだ、時間は停まる。過ぎてゆく音を形にまとめる作業が音楽と言われるのだろうか。

限られた範囲で指が動く。その時、予測される道ではなく、その時に指の歩いた跡を書き留めて、それを最初の線とする。見えない魚に引かれて動く浮きとおなじに、動かないものを外から動かす痙攣をあちこちで試す、他力を映す釣り糸の浮き、動きの遅れ。先立つ計らいもなく、整った反復もない。動くのではなく、動かされている、という感じ。元に戻れない、だから繰り返せない、すると即興であったも、書き留めておかないと忘れてしまう、逆に、書き留めてれば、おなじことを二度やらないで済む、でも、本当にそうだろうか。

書かれた楽譜を弾いてみる、おなじように、でも、おなじにはならない、わずかなちがいから、それまで見えなかった隙間、そこから垣間見る別な解決。それが一通りでなくありうるなら、どれをとっても、そこからの風景は変わってくる、そこまでの成り行きにも、その選択が影を落としているのは、その時はわからなくても、次の機会にわかるかもしれない。

指が表面を歩き回る。指は音を出すために、ある時間にはじまって、留まる場所を変えていく。これが指先に現れた身体の変化の流れで、外側からは、その指の動きから作られる音を通して感じられる身体の変化が、別な身体に押し付ける変化の波となって、その時間を染めているとしようか。
 
響きは、音の変化に連れて、聴く身体の内側で動き回る、痺れるような感覚の矢を感じとるうちに、生まれてくる、ことばにならない「もどかしさ」とでも言おうか。こうして、あるいは散り、あるいは絡まる音を聴く人は静まっていく。